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メロドラマからパフォーマンスへの流れを見ていく上で、ブレヒトを見るかアルトーを見るかで、実践上の対応の仕方は変わってくる。

簡略化して言って、「演劇」はブレヒトを見れば「社会教育の場」としてのパフォーマンスになるが、アルトーを見れば「祝祭の場」としてのパフォーマンスになるわけである。

そこで「祝祭の場」として演劇はどのように機能しうるかをスタニスラフスキーとアルトーで比較してみる。

「対話は――書かれ、話されるものであり――特に部隊に属していはしない。本に属している。その証拠には、文学史の入門書の中では、演劇は、分節言語(ランガージュ・アルティキュレ)の一枝葉として、場所を与えられている。 私の言いたいのは、舞台というのは、物理的な具体的な場所であって、その場所を一杯にすること、それに具体的な言語を語らせることが求められているということである。 さらに言いたいのは、この具体的言語は、言葉に従属することなしに五官に訴えるように作られており、従って、まず感覚を満足させるべきだということである。」 (『演劇とその形而上学』アルトー)http://yokotatakao.blogspot.com/2009/09/4-1.html

「さあ、諸君は、俳優が、注意の焦点をもたなければならないこと、そして、その注意の焦点は、客席にあってはならないことがわかるだろう。」 (『俳優修業』スタニスラフスキー)http://yokotatakao.blogspot.com/2009/09/2-5.html

アルトーは、今でいうところのクラブハウス、ロックミュージックみたいなものを想像して演劇を語っているのではないかと思う。自然主義演劇は、「舞台の中」を神聖なものと扱い、観客とは区別をつけている。したがって、アルトーの言うところの「直接的」であるための方法論は持たない。

しかし、自然主義の方法にしたって「俳優が観客に対して言葉を投げかけること」を否定することはできない。スタニスラフスキーも俳優がコミュニケーションをする対象として「観客」を挙げている。

「一 舞台上の対象との直接的交感と、観客との間接的交感二 自己交感三 その場にいないか、或いは架空の対象との交感」 (『俳優修業』スタニスラフスキー)http://yokotatakao.blogspot.com/2009/09/2-10_20.html

それを解消する手立てとして「物語」や「共感」を用意するのが、自然主義なのである。

「人間が現実に知っているものであるが、舞台では、それは、実際には存在していないけれども、しかし起りうる或るものからできているのである。」 (『俳優修業』スタニスラフスキー) http://yokotatakao.blogspot.com/2009/09/2-9.html

そこで、「メディアとしての演劇=劇場」と「行為としての演劇」は区別がつけられねばならない。何故なら、「演じること」そのものが、演劇であると捉えることができるからだ。裏を返せば「メディアとしての演劇=劇場」は機能しなくなってきている、ともいえる。

「どこでもいい、なにもない空間――それを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる――演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ。」 (『なにもない空間』ピーターブルック)http://yokotatakao.blogspot.com/2009/09/3-1.html

そこで、アルトーの美学では「劇場」は「メディアとして機能を持たない場所」が理想となる。むろん、それはピーターブルックの「なにもない空間」に継承されることになる。

「<舞台――客席>われわれは舞台と客席を廃止して、如何なる種類の境も区切りもない単一の場所をこれにかえる。それが、劇行動の舞台となる。観客と上演との間に観客と俳優との間に、直接的な交流がふたたびつくりあげられる。(・・)そのために、現存の劇場を捨てて、われわれは、どこかの倉庫か納屋を使い、ある種の境界とか聖地とか、高チベットの寺院の建築に到達した方式に従って、それを改造させる。 (・・)この広間は、四方の壁によって閉ざされ、装飾は全くない。」 (『演劇とその形而上学』アルトー)http://yokotatakao.blogspot.com/2009/09/4-2.html

かといって、自然主義演劇が全くもって舞台上で行われる「行為」を無視しているかといえば、そうではない。「物言い」「注意の集中」「行動の貫通直接」「超目標」の項目に表れているが、「美しく表現すること」は自然主義でも欠かせないのである。

現代演劇のリアリズムはどちらかといえば「美しく表現すること」さえも否定し、物語のみを語る媒体として演劇を扱っているのだから、より近代化が進んだといえる。平田オリザもまた「自分の演劇は近代演劇である」と語っている。そこでは、「直接的であること」は完全に否定される。

ではかといって、演劇がエンターテイメントとして機能しているかといえば、そうではない。

「世界のどの国でも、芝居の客は減っている。ときおり新しい運動、すぐれた新進作家などが現れるわけではない。だが全体としては、芝居は見る人の心を高めたり、頭を教化したりすることができなくなっている。いや、お客を楽しませることさえできなくなっている。」 (『なにもない空間』ピーターブルック)http://yokotatakao.blogspot.com/2009/09/3-2.html

そこで、アルトーの熱望した「直接演劇」はもろくも敗れてしまう。アルトーの夢は演劇ではなくロックミュージックに継承されることになる。それは、灰野敬二がアルトーを志向しているように、演劇ではなく、音楽によって。

「直接的」「ライブであること」は演劇の分野において「パフォーマンス」や「政治性」という言葉で回収されるようになる。そこで、演劇史上ではブレヒトの登場となる。ブレヒトは後に紹介する。

「パフォーマンス」もしくは「上演の政治性」が、「公演のレベル」なのか「行為のレベル」なのかを二分することで、ブレヒト寄りなのか、アルトー寄りなのかと分類することが可能である。そこで方法論は「公演のレベル」で「物語を信じる」ことによって「自然主義」になり、「行為のレベル」で「身体を信じる」ことによって「表現主義」になると言える。

そして、映像メディアの上では「自然主義」が優勢であり、舞台の上では「表現主義」が優勢(ここでは、ミュージカルを想定している)だといえる。

しかし、逆もまたしかりで、ミュージカル映画やコメディー映画は表現主義的な演技を用いた作品であり、映像ドキュメンタリーの手法は行為レベルのパフォーマンスを映像化したジャンルであるといえる。

だが私は自然主義もまた行為のレベルでパフォーマンス理論を必要としており、パフォーマンスが優位に立つと考える。

「生きた目標とリアルな行動とは、自然に、無意識に、自然をはたらかせるものである。そして、僕らの筋肉を十分にコントロールして、それを正しく緊張させたり、緩和させたりすることができるのは、自然そのものだけだ。」 (『俳優修業』スタニスラフスキー)http://yokotatakao.blogspot.com/2009/09/2-7.html

そこで登場するのが「インプロ」である。物語を信仰していても、どうしても頼りにしなくてはならないもの。それが「真実の感覚」であり、これがあるからこそ、今日はびこっている「自然主義演劇」は脱構築されなければならないと主張する。

さて、ここで現代演劇について考えなければならないことは、アルトー以降、映像メディアの登場によって自然主義演劇が理想としていた状況はスクリーン上に。ロックミュージックの発達によってアルトーが理想としていた状況は音楽に流れていったということである。

「演劇」や「演技」と言われるものが、「自然主義リアリズム」と同義になっているような感覚を覚えるが、演劇のメインストリームはミュージカルであり、自然主義演劇ではないことをまず想起すべきである。自然主義演劇の手法は映像メディアの中でメインとなっている限り、演劇=自然主義演劇とはもはや言えないのである。

また、ピーターブルックが指摘しているように「お客を楽しませることができなくなっている」演劇は、表現主義に傾倒しきることもできず、自然主義として君臨することもない、中途半端なメディアでしかないということなのだろうか。

これは、現代演劇に限らず、商業演劇、伝統芸能にも通用する問題である。演劇が今後どのような方向性を持つべきなのか、議論を進めるべきである。