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今、(近代)自然主義演劇(以下、自然主義演劇)から現代口語演劇にかけての流れ、そしてパフォーマンス理論への枝分かれについて考えている。

「生きた目標とリアルな行動とは、自然に、無意識に、自然をはたらかせるものである。そして、僕らの筋肉を十分にコントロールして、それを正しく緊張させたり、緩和させたりすることができるのは、自然そのものだけだ。」 (『俳優修業』スタニスラフスキー)http://yokotatakao.blogspot.com/2009/09/2-7.html

自然主義演劇が、物語を信仰し、劇場のメディアとしての価値・機能を信仰した結果、上演行為こそがパフォーマンス的に扱われることは既に述べた。それに対してパフォーマンスは観客を前提とせず行為そのものをパフォーマンスと見なし記述する。それは物語ではなく身体を信仰し、上演行為は捉えるにはあまりに大きすぎて、むしろ上演内容のポートレイトこそが価値を帯びる。

こうした対比の中で考えるのであれば、スタニスラフスキーは完全なる近代自然主義演劇だという判別はできない。スタニスラフスキー自身が表現主義の方法を認めている記述もあり、むしろ現代にかけての「非日常の排除」=「日常を描写する演劇」の一群が「近代自然主義演劇」の極みであると判断するのが妥当であろう。

あえて近代と現代を分けるとすれば、その道筋は二つ。「美しく表現すること」と「リアルな行動とは自然を働かせるものである」=「自然」という概念である。

前者はコード・様式を意味し、後者はインプロビゼーション・自発性(spontaneity)を意味する。
どんな表現も様式と自発性を排除することはできないが、扱いの上で「俳優に必要なもの」か「演出上必要なものか」に分けるべきではないだろうか。

「俳優に必要なこと」であれば、演劇という表現にとってどんな方法を取ろうとも必要になるが、演出上必要なことであれば観客の存在を前提とするからだ。これによってパフォーマンス理論と自然主義演劇の違いを決定付けることができる。

スタニスラフスキーは後期になって表現主義の方法を受け入れたと言うが、演劇に精通し、熟練者になれば俳優の立場を取るであろうからコードは無視されていくだろう。しかし、すべての観客がすべからくしてコードを持たない演劇を理解できるわけではない。コードがなければ受け取られず、市場として成熟もしない。

従って自然主義演劇における「自然」とは何だったのか。それを今一度振り返る必要があるように思う。今でこそ、インプロビゼーションの理論は発達したが、当時の「自然」が「日常」と「自発性」に区分けされてはいない。むしろ「真実」と同義語で使われており、意味はあいまいである。

自然主義演劇を決定付けることによって、現在、国際的に需要されている舞台芸術の相克が見出されるであろう。演劇は多くの場合、それはまだ自然主義演劇の様式を帯びてはいるが、大きな市場を形成しているのは(ミュージカルやアイドル、歌手の)ショーパフォーマンス寄りのライブコンテンツのほうである。

そして、自然主義演劇の手法は舞台ではなく映像メディアに大きく受け継がれている。これを鑑みるに「果たして、舞台芸術の方法として自然主義演劇が有効であるのか」という疑問が必要なはずである。

しかし、これは今日的市場、演劇の権威の中ではタブーにあたる。自然主義演劇が信仰している「メディアとしての劇場」は無批判のままであり、「物語」は創造するものであるとされる。それが崩れてしまっては、自然主義演劇の手法の多くは崩壊してしまう。

必要な視点は、自然主義演劇が培ってきた伝統や方法を壊すことではなく、受け継いだ形でパフォーマンスへと近づけていくことである。それは伝統の中にしまうわけではなく、スターシステムを利用して市場を形成することでもなく。「演劇」が「演劇」として市場を形成し、名声を、システムを手に入れるためである。

いつか「演劇」が日の目を見るためにも。