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演劇のエクリチュールをめぐって

2010/08/05

■まえがき
 ここで問題にすることは、舞台芸術(つまり劇場で行われる見世物のこと)における主体とは誰であるかということである。
 長らく、この問題はフランスの演劇にとっては戯曲とされてきた。しかし、不条理の演劇が登場する1960年代以降、戯曲の地位は下がっていく。視覚的・聴覚的情報の優位が言われ、文字ではなく文脈から演劇を問い直す運動が行われてきたことに由来する。
 だが、こうしたことを問題するにあたって考慮に入れなければならないこと、あらかじめ断っておかなくてはならないことがある。《演劇史》とは、つまりフランス演劇史のことであり、例えば日本の演劇史を問題とした場合には上記に挙げたこととはズレが生じている。(日本においては戯曲の地位の向上が目指されたのは20世紀からである。近松門左衛門を作家中心主義の発端をみなすことはできようが、それでも20世紀からと見るのが一般的であろう)
 だからといってフランス演劇史をたどるようなことがあってはならないと考える。演劇とは常に実践と理論の相互関係によって生み出されてきているからであり、《今、ココ》を重要視する演劇を、事実にするためには批評が常に必要だからである。したがって、ここで断わっておかなくてはならないことは、演劇のひとつの傾向を述べることしかできず、演劇そのもののあり方(ここでは演劇そのものの主体のあり方)を定義することは不可能なのである。
 エッセイという体裁を借りて、筆者の知識不足と、論理の曖昧さを誤魔化すことを承知していただきたく思う。ここで何を発想しているのか、それを掴んでいただければ幸いである。

■舞台上から物語上へ
 バルトは読者と《紙》の一回性の出会いをエクリチュールと呼んだ。歴史や記憶があるのではない。ゆえに発信者と受信者が不在の《紙》との出会いがエクリチュールを生み出すのである。
 演劇にとってエクリチュールとは何であろうか。
 それは戯曲か? そうではない。劇場において観客が出会うのは俳優なのであるから。それでは、俳優の音韻か? 俳優は戯曲を再現するための存在であり、戯曲に奉仕する存在なのだろうか。これも当然否定される。なぜなら、劇作家が戯曲の価値、作品の自律性を声高に叫ぶのは、そもそも俳優が劇場において強烈な存在だからである。
 そもそも19世紀に入るまで「文学」と呼べる戯曲は存在しなかった。モリエールの戯曲も、確かに「読める形」では残ってはいるが、それはコメディア=デラルテの類型的人物造詣の援用である。この時代、俳優は自身の見た目によって役が割り振られていた。従って、現在我々が想定するような「演技の魔力」は存在しなかった。
 しかし、この時代から登場人物の《性格》が物語に影響を与えるようになる。これは登場人物に一貫性を与え、喜劇でも悲劇でもない「ドラマ」(正劇)が生まれるようになる。
 こうして登場人物は《性格》を手に入れ、舞台上で《生き生きと》動くことが自然さを与えるようになった(当然、ここには一点透視図法で描かれた書き割り幕の存在を考慮に入れなくてはならない)。こうして俳優は舞台上から物語上へと吸い込まれていくのである。
 
■自由劇場から戯曲中心主義へ
 19世紀、自然主義の旗手としてエミール・ゾラが一連の小説群を発表する。この動きに呼応した形で出てくるのがアントワーヌ率いる「自由劇場」である。
 自由劇場における演技は《自然》というよりも、猥雑・混沌である。自由劇場はすぐさま衰退し、象徴主義の作家が登場する。自由劇場が教えてくれたことは、演劇には《形式》があるということである。
 これは記号学的に言えば、伝達のためにコードが必要であるということだ。《自然》とはあくまで、論理的一貫性の中にあるのであって、俳優が舞台上で現実の通りにいればいいわけではない。つまり演劇において《自然》は俳優の身体にあるのではなく、完結した作品のコードにあるということが証明されたわけである。
 そこで一貫性が求められたのが戯曲である。これはスタニスラフスキーの演技論を見れば明らかである。俳優が求める一貫性は戯曲にある(ないし、戯曲に通低するサブコード)。
 また、ラシーヌのように散文で書かれた戯曲には《形式》がある。朗誦法を習得し、美しい仕方で発声することがサブコードの一貫性を保つことになる。
 このようにして、我々は演劇における主体は「戯曲である」という伝統を作り出してきた。
 そこでは俳優は(一見すると)戯曲に奉仕する存在と見なされ、戯曲の再現が《自然さ》に奉仕することであると考えられてきた。
 だがしかし、戯曲中心主義とは本当に演劇の主体を「戯曲」に定めるために生まれたのであろうか。いや、それは違う。「戯曲」とは、演劇を流通させるためのシステムとして組まれているのである。たった今、上に見たように《自然さ》が俳優の側に存在しないことに起因するのである。

■戯曲という制度
 これは一体どういうことか。バルトによれば「コードの誇示に対する嫌悪は、ブルジョワ社会と大衆文化を特徴づける」(『物語の構造分析序説』)のであり、俳優という舞台上にいる直接的な存在を背景化するために「戯曲」が持ち出されるのである。
 つまりは、こういうことだ。観客は俳優の魔力を信じたいがために、戯曲を持ち出し、彼を戯曲の奉仕者=敬虔な殉教者へと祭り上げようとするのである。
 演劇が流通するためには、俳優の人気だけで収入を得ようとするのは問題をはらんでしまうのである。彼(俳優)がいなくなってしまったら、一体観客はどこへ行ってしまうのか?
 そこで戯曲は俳優を匿名化する。俳優が個人名で現れるのはカーテンコール(映画であればエンドロール)の時だけである。実際にはレビューやバラエティーなどで俳優は素の表情を見せることもあるが、演技の魔力は「ほかの存在に成ること」によって保障されている。
 同時に戯曲が《伝説》を持っていれば、二代目の俳優は、その権威の恩恵を《継承》することができるようになる(歌舞伎の場合、それは戯曲ではなく「襲名披露」という儀式になっているが)。
 俳優が舞台上にいるのではなく、物語上にいること。観客は俳優自身ではなく物語上にいる「登場人物」を見ていること。これが「戯曲中心主義」を支えているのである。これは、劇場の経済にとって不可欠な制度だったのである。

■演劇の主体は何か
 だが、このことは実はあまり一般的ではないと私たちは考えるべきである。戯曲を再現するという意味での狭義の「演劇」(ないし舞台芸術)は、あるイメージを背負わされている。それはシェイクスピアを上演する場所のことである。
 そして、これは今日「映画」という「ドラマ」(正劇)を記録・再現するジャンルが登場して以来、影を潜めてしまった。
 演劇を広義に捉えるならば、サーカスやレビュー、ロックミュージシャンのショー、ディズニーランドなどのテーマパークなども含めることができる。
 これらの《演劇》は、シェイクスピアの再現ではないが、何かの再現であることには変わりはない(ビートルズは自由劇場の俳優のように、素のままで振舞うことはしない。あくまでアイドルとして振舞うのだから)。
 この「何か」が問題なのである。それはサルトルの言葉を借りれば《美学的な》、通説的に言われる言葉であれば《非日常》のことである。
 ドラマの再現が「映画」=スクリーン(スクリーンは、見事なまでに「第四の壁」を作り上げてくれる!)に取って代わられた今、戯曲を上演することは、「戯曲」の価値ではなく、「再現能力」の価値が問われてるようになった(当然、何世紀も前から再現能力が問われることはあったが、美学上の対象とはならなかった)。
 そこではじめに取り上げた問題に立ち返ってみよう。演劇における主体は誰か。それは戯曲ではなかった。なぜなら、演劇の価値は再現能力に問われるからである。(戯曲に価値がないと言っているわけではない劇場の中で観客が問題とする力点を問題としている)。しかし、それは俳優でもない。なぜなら、劇場の経済から考えても、カバーガールのような存在であっても「素のまま」であったためしはなかった(唯一、週刊誌だけが「素のまま」を《自然さ》に結び付けているのみである)。

■一回性の美学へ
 だが、ここで結論付けるのはよそう。冒頭に述べたように、演劇それ自体の主体を明らかにすることは、ここでは不可能であるからだ。
 一つの仮説として、我々はシェクナーの「パフォーマンス」を想定することができる。
 「パフォーマンス」はバルトのエクリチュールがなければ想定できなかったであろう。それは過去を否定し、歴史をないものにする。世界のどこかしらのバラ撒かれた「シークエンス」(ないし「テクスト」)が表出する場である。
 観客は劇場において、「場」と一回限り出会う。俳優は「場」を創出するだけでなく、「場」に影響されて変容する。これが「パフォーマンス」である。
 イオネスコは、まだ作品の自律性を信じていた(信じていたという言い方は不適切かもしれない)。「一回性」はフランスでというよりも、アメリカで花開くのである。一回性の美学は1920年代以降、アメリカで生まれた「ジャズ」に見ることができる。一回性は即興性を結びつき、その場で生まれる「テクスト」を賞賛する。ここでは「テクスト」とは、文字のことを指すのではなく、文脈のことを意味する。ある文脈を共有した観客とパフォーマーが優れた「展開」をすることに価値が置かれる(これは日本の俳句と構造的に似ている)。ジャズの演奏家がCDを出すのを拒むのは、この一回性、「テクスト」の美学を知っているからである。
 この一回性、即興性を演劇に持ち込んだのがキース・ジョンストンである。彼はイギリスのロイヤルシェイクスピアカンパニーに勤めていたが、新たな演劇の上演方法として「即興」の論理を作り上げる。
 残念ながら、キースとの関係はここではわからないが、スティーブ・パクストンが「コンタクト・インプロビゼーション」を開発。現在、コンテンポラリーダンスの領域で、そのテクニックが用いられている。
 ここで重要なことは、戯曲中心ではない動きは英語圏(特にアメリカ)で起こっているということである。顕著な例としては、1960年代から1980年代にかけての「ハプニング」「パフォーマンス・アート」の発展に見ることができよう。
 現代美術の領域からの要請もあり「一回性」が「近代芸術」の解体の原動力となる。ここ想定する「近代芸術」とは狭義にはフランスの絵画サロンのことであり、フランスの演劇史のことである。
 そこで現代演劇とは、戯曲は「テクスト」へと解体され、「場」から想定する傾向のある運動であると読み取ることができる。

■同時代性の困難さからドキュメントへ
 しかし一回性における「テクスト」の価値は文脈に規定されており、文脈からいかに逸脱するかということが問われるのみで創出することに評価が向かない。デュシャンの作品が評価されるのは「逸脱」においてであり、「創出」における点ではない。
 これは暗に共同体を想定している。だがしかし、一体どこに同時代性を持ちえる共同体があるというのだろうか。それは発展途上の国にはあるのかもしれない。しかし先進諸国にはない。ギリシャにおけるアリストパネスのような作家は、少なくとも演劇の場では生まれないであろう。それはジャーナリズムであり、ゴシップであり、「全員が見る」ことが想定されているからだ。
 オデオン座の芸術監督であるオリビエ=ピイは自身のマニフェストで「テレビ時代のコミュニケーションに、少数派のコミュニケーションがいかにありうるか」と問いている(オデオン座http://www.theatre-odeon.fr/fr/le_theatre/le_projet_artistique/accueil-f-227.htm)。
 観客に同時代性を求められなくなり、演劇における《自然さ》は身体へと向かうことになる。これは現代に特徴的な問題ではないが、自由劇場の時代に「失敗した」俳優の一貫性は、「身体の一貫性」によって萌芽を見ることになる。
 この傾向から生まれたのがリミニ・プロトコルである。リミニでは舞台上に本物の革命家や老人を上げる。舞台は物語を再現する場ではなく、物語を背負った人間の懺悔の儀式(=プロトコル)となる。
 これはエミール・ゾラが掲げた「自然主義」の演劇的解決であると評価することができる。科学的・客観的な立場から事物を描写する態度。それは演劇の場合、物語ではなく身体に求められるべきだったのである。
 当然、こうした態度は日本においては寺山修司に見ることができる。『大山デブ子の犯罪』は、まさに舞台上に物語を背負った人物を表出させる。この個人史は鈴木忠志の演劇論にも見ることができるし、60年代アングラ以降のサブカルチャーが積極的に担ってきた部分である。
 しかし日本という土壌において、この特権的身体が演劇の正式な後継者として受け止められてはおらず、やはりリミニ・プロトコルをその正当な後継者と見るのが良いだろう。
 ここで一つの傾向として《自然さ》が物語ではなく身体に寄ってきているということができるだろう。

■身体のエクリチュール
 では、身体はいかなるエクリチュールを持っているのか。それがここで明らかにしたい問題である。
 一回性に注目し、文脈を重視することなのか。それともドキュメントの一つの形式として歴史・個人史を背負った身体のことを指すのか。
 少なくともコンタクト・インプロビゼーションの登場によってわかったことは力学的な運動だけでは情報の伝達は行われないということである。パフォーマーが「イメージ」することで、ようやく運動は意味を帯びて伝達される。
 それは言葉やマイムのように記号的なものでなくとも、「読者は文体から何かしらの態度を受け止めることができる」。そう、それは「本当に意味を持っていれば」伝わるのである(メルロ=ポンティ『表現としての身体と言葉)。
 そこで私たちは、いかにして「意味を持つ」ことができるかを考えるべきなのである。これは記号学が対象に対して恣意的に意味を与えることができると考えているものとは異なる。私たちが世界からいかに意味を汲み取り、それを受容し、感染させることができるかという問題である。 
 このことは、スタニスラフスキーの性格の建設法に寄っても良いかもしれない。なぜならば、スタニスラフスキーの「内面化」は多分に神秘主義的なところを含んでいるからである。潜在意識・共感覚・共同体の記憶など。いまだに科学的にも解き明かせない問題を含んでいる。
 俳優が登場人物を内面化する、もしくは成るとは、「俳優が」成るのであろうか。それとも「登場人物が」俳優に憑依するのであろうか。同時的だとしたら、同時的とは一体どういうことか。
 当然、この問題を扱いきることはここではできない。そこで、一つの問題意識を取り上げることで、まとめとしよう。

■商品ではないコミュニケーションに向けて
 演劇を(マルクス的な意味で)疎外してきたのは、戯曲中心主義と、スターシステムであった。今日では、ここにテレビやラジオ、インターネットなどのメディア媒体を入れてもいいだろう。
 戯曲は俳優を矮小化する。スターシステムは演劇を短命に終わらせる。メディア媒体は規模の経済を引き起こす。いずれも演劇にとって縮小再生産をもたらすものばかりである。
 そのメカニズムとは、劇場において「テクスト」が創出されないという一点に集約される。「テクスト」はあらかじめ設定されており、観客は劇場に「確認」しにくるだけである。これが現在の演劇(ないし20世紀から現在にかけて)を疎外する原因である。
 そこで我々は、演劇を「テクストを創出する場所」として構想しなければならない。当然、そうしたことは今までもなかったわけではないが、ここで問題としなければならないのは「制度」である。
 戯曲を上演するシステム、俳優組合、演劇祭、地方の巡回公演、演出家の地位、新人劇作家の発掘など。これらの演劇を取り巻く制度が「テクストの創出」におかれなくてはならないのである。
 現在、私たちが頼っているのは「古典戯曲」「著名な批評家の批評」「スター俳優」である。
 古典戯曲に対して、私たちは「自明に価値のあるもの」としてではなく「歴史を積み上げてきたもの」として向かうべきだろう。古典戯曲が上演された文脈、文化背景を同時に知ることが、この問題を解決してくれる。
 批評に対して、私たちはリテラシーを持つことを教育すべきだろう。「良いものが良い」というのはリテラシーではない。演劇固有の問題として、作品をいかに見るのかを批評家は問題とすべきである。主観的な感想を述べるだけではいけない。また同時に、演出家や俳優は演劇が批評と共にあることを改めて考えるべきである。
 スター俳優に対して私たちは、ゴシップの流通によって立ち向かうべきだろう。重要なことは劇場で俳優がどんな振る舞いをしたのかを情報として流通させることである。これはインターネットを介して、居酒屋での世話話を介してで良い。俳優を見たというだけでなく、俳優がどんな態度だったのかの情報を流通させるべきである。
 劇場は身体を保存する、唯一の機関である(共同体の記憶に頼っていては、文化の多様性は時代と共にすぐに失われてしまう)。この保存は映像によってアーカイブするだけでなく、私たちのアクチュアリティを常に敏感に反映させることで実現されなければならない。
 これを実現させるために、演劇の場は常に活況でなければならず、常に下克上が行われていなければならず、常に裏ではワークショップや実験・研究が行われていなければならない。
 現在のところ、それは戯曲を中心にして進んできてしまった。しかし戯曲の保存が演劇の保存と同義でないことは明らかだ。
 演劇、いや身体をアーカイブするための機関を組織する試みは、いまだどんな劇場でも達成を見ていない。