卒業論文『演劇の記号論~スタニスラフスキーを読む~』⑥

■「自然主義」の物言い
 「自然主義」と現代演劇の間にある、大きな外的特徴は「物言い」にあるといっても過言ではないだろう。 「自然主義」は「内的感情」を表象する。その形式は「物言いのテンポとリズム」によって表象される。これは、決して現実的な発声でもリズムでもない。私たちからしたらむしろ非現実的な発声方法である。

 これは「自然主義」の俳優が映画に出演した当初のときに露呈した問題である。 「自然主義」および「システム」の俳優は映画やテレビドラマに出演する際、「演技くさい」「わざとらしい」と煙たがられた。
 映画やテレビドラマの演技法の多くは「自然主義」の方法論を踏襲しているが、「物言い」に関しては踏襲されなかった。 これは、劇場という情報伝達装置のハード面の問題であったといえよう。
 マイクによる集音技術がない劇場では、台詞は朗々と語られなければならなかった。台詞を朗々と語るのは、内的感情のミメーシスであり、身振りとは一線を画して扱われる。

 そもそもギリシャの円形劇場、オペラの形式、ミュージカル、バレエ、歌舞伎など「デフォルメ」の様式は、そのハードに拠った。デフォルメがコード化したものが特有のコードとして継承されるわけだが、「自然主義」は不幸にもコード化されてしまった。それは、劇場というハードが時代に合わなくなってきたためである。

 演劇市場に占めるミュージカルの割合は、恐らくどの先進諸国でも高いだろう(日本では5割「ぴあ総研」調べ。http://www.pia.co.jp/pia/release/2008/release_080919.html 2009年1月19日アクセス)。これはミュージカルというコードが大衆に受け入れられていることを示している。
 一方で「自然主義」のコードは「古臭い」というイメージを呼び起こすようになってしまい、若手の演出家が「自然主義」の物言いに従って演劇作品を上演するということは、(主観であるが)あまりない。

 コード化することを恐れたスタニスラフスキーであったが、この「物言い」の章において、「自然主義」はコード化してしまうのである。現代の劇場機構もしくはスタジオ機構の中で「自然主義」を行うならば、(演劇のコードから脱するための方法論として捉えるならば)「物言い」の章は削除するべきであろう。
 それは考慮にいれられるべきであるが、『俳優修行』に書かれているようなやり方で「デフォルメ」するのは、いささか時代に合わない。

 現代の劇場機構、スタジオ機構であっても「物言い」の方法論は確立されるべきであるし、テンポとリズムは存在する。それは、現実の子供の喋り方が大人からしたら「わざとらしく」聞こえるのに対し、演劇や映画の中で出てくる子供が「普通」に喋るのは、(大人にとって)「普通」に聞こえるリズムとテンポというものが存在するからである。

 また演劇や映画において「普通に振舞う」ことが演技様式として扱われた場合、内的感情を表象するのは、往々にして「音楽」である。(映画の場合であれば情景描写のカットを挿入することも可能だ)しかし音楽によって内的感情を表象しようとすると、情報の発信者はどうしても俳優から演出家、作家に移ってしまう。
 主体としての俳優の地位は、みるみる下がっていく(ミュージカルは俳優自身が歌い上げるので、主体としての地位は保たれる)。ここには「演劇の主体は誰であるべきか」という議論になってしまうので詳細は避けたいが、「自然主義」においてはまぎれもなく「俳優」である。
 スタニスラフスキーは当時のロシアの演劇状況、つまり劇作家が主体であり、俳優はただミザンセーヌどおりに動くだけ、という状況を廃し、俳優を優遇し、俳優とコミュニケーションを取ろうとした。このことは賞賛されるべき点である。しかし映画やテレビドラマにおいては発信主体は監督(もしくは編集者)と言われることが多く、俳優が情報の発信者として確立はされていない(俳優は単なる被写体として扱われる)。
 その点では、「舞台芸術の伝統はただ役者の才能と能力のうちにのみ生きている」のかもしれない(Станиславский. 1926c. 訳p253)。
 これを支持するのは、記号の動性である。映画においては、記号は静的であるが、演劇においては記号は動性であり、「その主たるコードの変換者は俳優」なのだ。(ELAM. 1980 p94-95)