卒業論文『演劇の記号論~スタニスラフスキーを読む~』⑤-2

■「注意の集中」

 俳優が気づくことはキャラクターにとってはディエギシス的であり、キャラクターが気づくことが、内面のミメーシスであることは先に述べた。パースペクティブは俳優が気づくことに対して消極的にさせてくれる。

 しかし、実際に「キャラクターが気づく」とはどういうことか。それは可能なのか。

 それは劇世界から現実世界への「指呼」によって与えられる。(常に再帰的にあたえられる)キャラクターが、現実(舞台上の大道具、俳優、先ほどまで上演されてきたシーン)に対して指呼(これ、あれ、それはどうだ)することによって劇世界は強化される。

 現実に存在する記号を劇世界が回収することは演劇における指呼だけでなく、広告のイメージ戦略(有名人が商品の感想を述べる)、神話(太陽と月は同時に昇らないから敵対している)、オカルト的な伝説(点が三つあると人の顔に見える)にも当てはまる。 「自然主義」の主体は「キャラクター」である。つまり、指呼はキャラクターから現実世界に向かって行われる。指呼は演出家から現実によって与えられるのでもなく、作家から現実によって与えられるのでもなく、俳優から現実によって与えられるのでもなく、キャラクターから現実によって与えられるのである。


「客席をそっちのけにするためには、諸君は、なにか舞台の上のことに興味をもっていなければならない。」(Станиславский. 1936. 訳p114)


 キャラクターが対象を語るのではなく、指呼することによって、情報の落差が生じる。(「これはイスです」と語るのではなく、「これは俺が作ったんだ」と語るなど)ここに演劇がモノローグ(独白)的であるよりも、ダイアローグ(対話)的であることが支持される。この指呼を「注意」と見ることができる。


「一 それは、フットライトの手前になければならない。それは、ほかの俳優の方へ向けられていなければならず、観客の方へ向けられていてはならないのだ。

 二 それは、自分のものであるべきではあるが、しかし、自分が描いている人物の目標に類似しているべきである。

 三 それは、その機能が我々の芸術の主要目的、すなわち、人間の魂の生活を創造し、これを芸術的な形式で表現するということを実現するにあるべきなのだから、創造的で、芸術的でなければならない。

 四 それは、リアルで、生きていて、人間的であるべきであって、死んでいたり、月並みだったり、芝居染みていたりすべきではない。

 五 それは、諸君自身や、相手の俳優や、観客がそれを信じうるように、真実であるべきである。

 六 それは、諸君をひきつけ、動かすような性質をもつべきである。

 七 それは、かっきりしていて、諸君が演じている役に典型的なものでなければならない。それはちっとでもあいまいであってはならない。それは、役の構造のなかへきちんと織りこまれていなければならない。

 八 それは、役の内的実体に対応するだけの価値と内容をもっているべきである。それは、浅薄であったり、皮相であったりしてはならない。

 九 それは、役を前進させ、これを停滞させないように、能動的であるべきである。」(Станиславский. 1936. 訳pp.176-177)


 「自然主義」は舞台上に首尾よく現実を見つける。およそ舞台上には「空間」「劇場機構」「舞台装置」といった現実しか存在しないが、また「人間」も存在する。

 キャラクターが「内面的感情」を根拠に人間を指示することによって、「内面的感情」の劇世界は強化される。さも「人間は内面的生物である」といわんばかりに、「内面的感情の劇世界」から現実に対しての指呼がなされる(「私はそうされてどういう感情である」の断続)。