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質料について

2010/12/08

色々な立場の人と話をする中で、最近自分の中で明確になってきた部分がある。

少し、それについてコメントを残しておこうと思う。

まず、基本的な前提として「真実はひとつではない」という大枠について述べたいと思う。

デカルト的な真理は、人間の外側に置かれた決定者のことなのだから、人間である私たちが、その決定者の目的や意図について口出しをすることはできない。

ゆえにたった一つの真理や真実は議論することもできないし、議論すること自体が無意味である。

従って、唯一神や純粋理性を肯定するようなことはできない。

かといって、全ての現象が個別的な差異を持っていると考えることは難しい。

個別的な差異はある程度の部分で認められたにしても、差異同士の競争・淘汰から必然的に、運動があるまとまりを示してしまうことがある。

また、それぞれ個別が互いに独自性を認識しつつ動くことそれ自体も、不可能である。

すべての物質が個別性を持つということは、想定されうるが、観測すること、実感することは不可能である。

認識は、星座を観測する時のように、あるまとまりとあるまとまりの差異を見出すことから始まる。

そのまとまりに名づけをした上で、それぞれの星にベガだとかアルタイルだとか個別性を見出す。

そのまとまりからはずれてしまう星は、人間の認識のうちにも入らないし、一度名づけられた星座をもう一度再構成しようという試みがなされることはない。

私たちの身の回りにあふれる「記号」それぞれも、単独の記号が価値を持つわけではなく、共通のコードに回収されることで始めて価値付けられることは明白である。

従って、独自性というものは究極のところ存在しないし、探す意味もない。

ここで重要なことは、記号が貨幣に交換されることである。「独自性」を主張する意義は、そこに個別の価値を見出すことで、貨幣と交換するインセンティブを与えるからである。

ゆえに、記号は貨幣の流通に従属しており、貨幣こそが記号や言語、認識といったものを作り出す。

しかしこのことを、ネガティブに受け取る必要はない。私は、すべての生が貨幣に還元されると言っているわけではなく、現象が記号化され、流通した場合にこぼれてしまう何がしかのノイズや情報があることを否定しない。

芸術家は一般に、この言語化されない、記号化されないノイズを抽出し、新たな価値を社会の中に提案するといわれる。

しかし、記号化されないものを価値付けようとする運動は、いつまでたってもノイズにたどり着くことはできない。

人間の認識のうちに理解されない情報は、それでも私たちに何がしかの印象や影響を与える。

こうした目に見えない影響関係を、私たちは神話と呼ぶ。

それゆえに、神話は常に結果的にしか私たちの目に見えない。例えば地震や台風といったものは、その予兆や起源をさかのぼることはできないが、家屋が倒壊したり、観測機によって目に見えるかたちにまで、つまりあるまとまりを持つほどに集積されたときに始めて認識可能になる。

従って、神話とは起源の物語ではなく、結果の物語である。

そこに起源を見出そうとする人間の感性が、神話を生み出すのである。

ゆえに、神話は常に神話でしかありえず、プロメテウスや天照大神を「現代化」することはできない。

ソポクレスの悲劇をコルネイユやサルトルが書こうとしても失敗してしまうのは、そのためである。

ここからわかることは、神話は言語によって生成されるのではない、ということである。

なるほど、認識は言語によって生成され、言語に帰着する。しかし、神話は結果の物語であるから、言語外のところからしかやってこない。

言語外のところからやってくるものの、最終的には人間の言語に回収される。それは理解できよう。しかし、神話は常に言語世界に生きる人間をおびやかし、人間世界の外側から圧力をかけてくる。

そして、それがあるまとまりにまで集積されたときに、人間は言語によって記述し、神話に打ち勝とうとする。

では、現象から、人間が見出そうとする言語外のこと、認識外のこととは何なのか。

アリストテレスは目に見える現象のイデアの一つに質料(ヒレー)を数えている。(質料とは、机の質料は木であるというように使う)

イデアは一つではないものの、人間が受け取ろうとする情報とは、この質料に近いものなのではないかと私は考えている。

ものそれ自体や、現象それ自体ではないものの、それぞれの星の中に星座を見出そうとする認識の運動は、イデアというよりも質料を見出そうとする。

およそ、私たちの目には全ての物質が原子からできているというようなことを見出す能力はない。

土や水、風や火の中に「同じ原子がある」と感じることがあるだろうか。やはり、物質にある質感(それを原子の構成という言い方はできるかもしれない)を感じ取るのではないだろうか。

それを感じ取る認識は、認識ではなく身体である。

認識には、現象を言語化する能力があるが、身体には現象から質料を感じる能力がある。

この感覚された質料は、あるまとまりを持ったときに認識され、言語化される。

世界を構成するのは、言語ではなく、この質料である。

質料が人間の認識の外側と身体の中間に位置すると考えたとしても、質料が現象的に存在することはない。

机を見て、その質料を木だと感じたとしても、その机がニセモノの材質で作られている場合がある。

人間の感覚は、このように騙されてしまうし、ある先入観の元では誤解されて受け止められてしまう。

しかし、この誤解をとがめることはできない。

19世紀末まで(あるいは現在もそうかもしれないが)白人は優勢種であるという認識は、一般的に受け入れられていた。それゆえに、黒人差別や黄色人種の劣等意識は生まれてしまったのである。

もし、人間の感覚の過ちを指摘することができるならば、世界はこんなミスをしなかっただろう。

こうした感覚の誤読は、認識のうちの一つなのである。

したがって、こう結論することができる。

結果の物語であるところの神話をつむぎだそうとして、私たちは言語や記号を用いる。

言語の外側から受け取った情報を言語に固着させること、それは神話を作ることであり、歴史を作ることであり、人間の認識を形作ることである。

しかし、この神話や歴史が誤謬のうちに成り立っていたとしても、否定することはできない。ギリシア世界や日本神話の世界が別の仕方で存在することは、やはりなかったのである。

ゆえに、プロメテウスと天照大神を同一視することはできないし、キリストとアッラーを同一視することはできない。

大波と津波を同一視することはできず、津波は英語にしてもtunamiとしてしか記述されえない。

また、キャンベルスープとまるちゃんのみそ汁(日本の商品のことです)を同一視することはできない。キャンベルスープは、キャンベルスープでしかありえなかったのである。

ゆえに、貨幣によって価値付けられ、権威付けられた記号も、交換可能なのではなく、交換不可能なのである。

従って、私たちの生も記号化されることはあるにせよ、また個別の生というものがありえないにせよ、何か別の生と交換可能であるということはない。記号化された現象は、必然的にその記号を内包しているのである。正確に記述しようとすれば「現象が記号化される」のではない。私たちは結果的にしか言語化・記号化することができないのだから、現象が記号を内包していると考えた方が正しい。

そして、この「内包の仕方」というものは、星座の中から固有名詞を生み出すように、それぞれの関係性の中から生み出されるものなのである。

この関係性は、何度も繰り返すことになるが、言語によって関係しているのではなく、(感覚の誤謬も含んだ)質料との関係性によって成り立っているのである。

さて、ここまででだいぶ稚拙で、抽象的ではあるが、自分の考えを述べた。

もちろん、考察しなければならない対象や、知っておかなくてはならない知識は自分にとってはまだまだ山積みで、不勉強極まりないというほかないのだが、ここ最近自分の中で確固たるものになってきたアリストテレスの質料の概念について述べさせていただいた。

長文ながら、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
よこたたかお