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ゾラ「演劇における自然主義」の誤解

ちょっと、メモ。メモのための文章なので、参考文献とか載せないっす。すいません。思考の整理、道筋を改めて考え直すために、書いています。だから、インターネットにダラダラと記す。(誰が読むのか?)

横山義志さんの修論「アントワーヌの演技論を支えるいくつかの主要な概念について」(2001年提出)のおかげで、自然主義演劇の演技論に対して言えることが、だいぶ増えたように思う。これは、貴重だ。
そもそも、日本の演劇研究・文学研究において、「自然主義演劇」「自然主義文学」の理解は、そう完全に進んだわけではない。むしろ、表現主義やシュールレアリスムのほうが研究は進んでいる感が否めず、自然主義をしっかりと論じた文章って、そういえば見たことない。

特に自然主義演劇に対しての誤解は、明治期の坪内逍遥周辺のゾライズムの誤解(科学主義を抜いた、むしろロマン主義的な自然主義)と、戦後のスタニスラフスキー絶対主義(スタニスラフスキーのシステムが自然主義演劇の演技論として定着している)の二点に、大きく断層を見出せる。

特筆すべきは、スタニスラフスキー絶対視観で、スタニスラフスキーを「自然主義」と言っている時点で、結構危ない、日本は。スタニスラフスキーは自然の優位を解くけれど、結局「自然」を「俳優」の中に見出そうとした、いわば生気論(「生」によって、医学的根拠づけをしようとする、非科学的立場。クロード・ベルナールが否定した)的性格があることを指摘しなければならない。

結局、「自然を模倣する」とか「役を生きる」とか「命を吹き込むとか」は、俳優の中に見出される限りは、ディドロやゾラのような唯物論者のそれとは、異なってしまっている。

ここに、日本の自然主義演劇に対する大いなる誤解があるわけだ。

横山さんの修論は、この話をするために、非常に有利な言説を展開してくれている。自分としては、すごく心強く、この論文のおかげで言えることも増えた。

横山さんの論文では、アントワーヌの演技論が実証主義を目指しているにも関わらず、生気論的性格に傾いてしまったことを指摘している。

簡単にいえば、演劇においていかに俳優が「客観的に」「実証的に」「冷静に」「叙述的に」演技しようとも、やっぱり俳優の演技が観客に感銘を与える根拠は「俳優の感動」にほかならない、ということだ。

ここの問題圏は、ちょうど20世紀のダンスの展開にも見出されて、「自然」を「外界」に設定するのか「身体」に設定するのか、「力学」に設定するのかの三つのポイントによって、表現方法は大きく異なる。

アントワーヌの場合には、「身体」(むしろ、内面、自我、無意識などの心理学的身体)に依拠していて、俳優が実感したことが、そのまま直接的に観客にも伝わるだろうと推論している。これは、スタニスラフスキーが継承するわけだけど、アントワーヌの時点で「自然主義演劇」の演技論は決定されていたと言ってもよい。

この「内なるリアリズム」(スタニスラフスキー)は、すぐさま表現主義と結びつく。自然主義の理論が、表現主義によって完成された、ともいえてしまうわけだ。ちなみに、日本の戦後のスタニスラフスキー受容は、この点を大きく欠いている。(小山内薫は誤解していなかっただろうけど)

ここで、アントワーヌとゾラの演劇に対する考え方を考察することは有意義だと思っていて、アントワーヌの「自然主義」は生気論、内なるリアリズムに傾倒したわけだけど、ゾラの「自然主義」は(まあ、演劇人じゃないしね)そこまで倒錯していない。

ただ、ゾラの場合、「自然」の客観性をどこに担保していたかと言うと、舞台装置だった。俳優の身体や、プロセニアムアーチ、音楽などではなく、舞台装置であったことが、非常に重要だ。

なぜなら、この客観性を成立させる要件をどこに設定しているかが、それぞれの芸術家の立場を大きく分けることになるからである。

ゾラは、小説家だから、小説の場合には、非人称的記述(客観的記述)や説明的記述が、この「自然」の客観性を担保する理由になるわけだ。そして演劇に話を持ってきた場合に、それは「舞台装置」によって担われると説く。

人間を覆いつくす「環境milieu」という客観性が「自然」にあるとするイデーこそ、自然主義であり、それを実現するための方法・理論的根拠がゾラの場合、舞台装置であり、アントワーヌの場合には俳優の身体(生理学的身体)にあったことが、自然主義演劇と一言には言い切れない差異である。

社会学の発達した今日において、ゾラが非難した「演劇の持つ様式性convention」は、むしろ生活様式との関係において理解されるわけだから、一言で非難をするための対象ではなくなっている。18世紀の市民劇には、ブルジョワジーの台頭、20世紀初頭のリアリズムにはプロレタリアートの台頭、以降の演劇には近代的苦悩の社会問題化など、生活様式との関係において様式というのは理解されるから、「リアル」とは生活様式と表現様式の弁証法的必然性にほかならない(ルカーチを参考)。

だから、根本的に演劇から様式性を排除しようというゾラやほかの(ベックやジュリアン)などの自然主義派の嫌悪感というのは、演技論にとっては誤解であったと、言うべきなんじゃないだろうか。

ここらへんの差異もまた、横山さんの論文にコクランを引用して述べてあるので、これも言えるようになった。ありがたい!

自分が研究したい、知りたいことというのは、ゾラのような自然主義の作家が、どこに客観性の根拠を見出そうとして、何を排除したかということである。

この根本的なモデルはプラトンとアリストテレスの対立に端を発していて(まあ、それを論じることは今の学力じゃあ不可能だが)、生の芸術である演劇と、知性の芸術である叙事詩の違いを論じることにほかならない。

つまるところ、演劇に表象可能な客観性と、文字によって表象可能な客観性は異なるのであって、演劇の場合、どうしても様式性や経済的な市場の中に見出さざるを得ない。つまり「神話」の中にしか、演劇は客観性を見出せないと、自分は思っている。

時世の先端科学や、特定の宗教的信仰心の中には演劇は客観性を見出せないはずだと思う。(これは、グロトフスキーの持たざる演劇に呼応する)

それは、ゾラから、その片鱗を見せることができるんじゃないかと思っていて、小説における叙述と、演劇における叙述(舞台装置)の差異を述べることができれば、実証できるんじゃないかと。(まだ、ここが甘いですが)

うん、まあ、こんなところか。
横山さんの研究によって、日本での自然主義演劇の演技論の研究も、だいぶ進むように思う。

自分の場合は、ゾラにでも絞って、この問題圏を深めていこうかな、と思っているしだいです。まあ、まだどうなるかわからないのが正直なところだけれども。