茶番劇、なんなの?

芸といふものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜の間にあるもの也。」近松門左衛門『虚実皮膜論』)

僕(よこたたかお)が何故「茶番劇」を始めたかって? それは僕の人生があまりに茶番に満ち溢れているからさっ。よく「劇場の中には世界がある」と言うけれど、あれはウソだね。だって、ドラマの中よりも現実世界のほうがスリリングで、劇的で、物語にあふれているから。

だからこの言葉は訂正した方がいい。「世界の中に劇場がある」ってね。(あらら、逆さまにしたら何の含蓄もない文章になっちゃったね、、、)でも、僕らが生きている世界=現実は、すごくスリリング。私的な意味でも、公的な意味でも毎日どこかで争いは(それは、些細な夫婦喧嘩だとしても、イラク戦争のようなものだとしても)起きていて、僕らはそれをニュースやインターネットを通して知らされる。だから「日常」こそ「本番」。僕らは必死に日常を生きているじゃないか。

このスペクタクルな日常を差し置いて、僕たちパフォーマーが「物語」や「ドラマ」を創作できるなんて考えちゃあ勘違いだってことだよ。日常こそ「本番」であって、僕らがハレだと思い込んでいる舞台ってもんは前座みたいなもの、つまり「茶番」ってことさ。僕はそう思うね。パフォーマーと観客が、お互いに作り上げる「物語」こそ、完成された「物語」なんだって僕は信じているんだよ。

でも、毎日が「本番」じゃあ疲れてしまうだろう? 俳優だってそうさ、同じ役をずっと演じなきゃいけないのは疲れるよね。でも、割り振られる役は(申し訳ないけど)見た目と偏見、それと演出家の好みで決まってしまうのさ。

だから、たまには「茶番」を入れて休憩してみたらどうだい? 茶番劇は、日常を演じるのが疲れた人に見に来てもらいたいね。延々と続く日常。これに耐えられなくなりそうだったら遊びにおいで。「茶番劇」は、ダラダラとした日常をダイジェストでお送りするよ。

「茶番劇」は、僕らの日常を引き立たせる前座だからね。主役は見ている人たちなわけだ。僕の猿芝居を見て、元気になってよ!

よこたたかおによる、現代の茶番