僕は、スタニスラフスキーの方法は有効な手段であったが、それが全てではないと考えている。ピーターブルックも「一つの方法からは全ては表現できない」と言っている。けれど、スタニスラフスキーが書いた『俳優修行』は今でも多くの示唆を与えてくれる本である。ここに書かれていることの古くなって通用しなくなった部分を、新しく書き換えることは、一つの意義を持つであろう。
「今日のアメリカでは、メイエルホリドにあたる人物が出現すべき機が熟している。自然主義的な人生描写がもはやアメリカ人にとって、自分たちをつき動かしているものの妥当な表現とは見えなくなってきているからだ。」 (http://yokotatakao.blogspot.com/2009/09/3-4.html)
日本では、自然主義的なものが主流であるわけだけど、ポップカルチャーにまで目を落とせば、そうでもない。過度なギャグシーンや、非現実的なシーンを表現するための表現は自然主義的なものではない。従って、新国立劇場でやっているような作品群が自然主義に拘泥せずに、また商業演劇の劇場が自然主義に拘泥せずに、もっとほかの方法論とアクセスすれば、日本の演劇だって上で言ったようなことは充分に当てはまる。
しかし、ピーターブルックとスタニスラフスキーの思想の違いは大きく言って、ここにあるだろう。
「大俳優は、感情で一杯であるべきだ、殊に、彼は、自分が描いているものを感ずるべきである。彼は、情緒を、単に役を研究している間に一、二回だけではなく、それが一回目であろうと、役を演ずる度毎に、多かれ少なかれ感じなければならない」 (http://yokotatakao.blogspot.com/2009/09/2.html)
「役になりきる」という誤解は「演技の一回性」という壁を前に発生し、スタニスラフスキーは「キャラクターの建設」というステップであがりきろうとしたが、これが誤解を生み出した。
そこで、アルトーが「祝祭的」とか言って、それがピーターブルックにも受け継がれるわけだけど、それでも世間の「演劇」に対するイメージは上記の「役になりきる」というところから脱せていない。
オペラや歌舞伎を想像すれば簡単にわかるものだが、演劇に対するイメージの違いはまだ払拭しきれていない。
だからこそ、自然主義演劇を脱構築する必要がある。
「生きた目標とリアルな行動とは、自然に、無意識に、自然をはたらかせるものである。そして、僕らの筋肉を十分にコントロールして、それを正しく緊張させたり、緩和させたりすることができるのは、自然そのものだけだ。」 (http://yokotatakao.blogspot.com/2009/09/2-7.html)
スタニスラフスキーは上のようにも述べており、ここでいう「自然」が何を意味するのかが、争点だと思う。自然界に属するものと、舞台上の力学的真実をない交ぜにして語っており、「自然主義演劇」の語る「自然」の定義を改める必要があるだろう。
ここで、パフォーマンス理論を登場させたいところであるが、とりあえず今はスタニスラフスキーとピーターブルックの違いにだけ注目しよう。
「なにも三流喜劇やまずいミュージカルだけが、木戸銭のただどりをしているわけではない。〈退廃演劇〉は致命的な足取りをもって、グランド・オペラや悲劇にも、モリエールの芝居にもブレヒトの芝居にも、忍び込む。(・・)かてて加えて始末のわるいのは、あのうんざりする退廃観客があとを経たぬということだ。つまり、どういう格別な理由があるのか知らぬが、緊迫感のない舞台、いや娯楽的でさえない舞台がまさにお気に召すといった、救いがたい手合いのことである。」 (http://yokotatakao.blogspot.com/2009/09/3-3.html)
「不幸にして、世間には、いい趣味より、わるい趣味の方がずっと多いのである。(・・)それこそ一番割るいことは、紋切型が、まだ生きた感情の詰まっていない、役のあらゆる隙間を埋めようとするということだ。」 (http://yokotatakao.blogspot.com/2009/09/2-4.html)
スタニスラフスキーもピーターブルックも形式化されたものに対する反発がある。
スタニスラフスキー自身は、それを避けるために「自然」と言う言葉を使ったのだろうが、メソッド化されてしまったカッコつきの『自然主義演劇』は、やはりコード(形式)である。
それは、演劇のコードを知らなくても享受できる形式なのかもしれないが、やはり形式であることには違いない。自然主義のそういったところを否定するつもりはないが、結局のところ「自然主義演劇のメソッド」は、ここでスタニスラフスキー自身も乗り越えることはできなかったのだ。
そこで、自然主義演劇が一つのコードでしかないということを踏まえて、次の章にいきたいと思う。