卒業論文『演劇の記号論~スタニスラフスキーを読む~』④

■「自然主義」の記号

「演劇で肝心なのは、鉄だろうと、板紙だろうと、それでオセロウの短剣ができている材料ではなく、彼の自殺を正当化することができる俳優の内的感情なのだ」(Станиславский. 1936. 訳pp.191-192)

 先ほども例として上げた、ここの部分であるが、これは演劇における記号の動性を捉えたものである。演劇における記号は複雑であり、そのメカニズムの分析、定義はされていない。しかし演劇における記号は流動的で、いかようにも変えることができる。 「自然主義」においても記号は静的なものではなく、動的なものとして扱われる。演劇における記号は静的ではない。

「よい約束は美しいものでなければならない。しかし、劇場風に観客の目をくらませ、酔わせるものが美しいのではない。美しいのは、舞台上、そして舞台から、人間精神の生活を高めるもの、つまり俳優と観客の感情と思考を高めるものである。(『演劇におけるわが生涯』(Станиславский. 1926c. 訳p. 59)

 「自然主義」は「オセロウの短剣」が実際の短剣である必要性を持たない。「自然主義」が「内的感情」のミメーシスである限り、「オセロウの短剣」から呼び起こす「感情」が俳優と観客の間で共有されていれば、成立してしまう。

 逆に記号が静的であれば、その記号がその実物として扱われなければならず、演劇の命題である「何度も再現をする」こと、「知っていながら演じなければならないこと」を乗り越えることができない。

 舞台上にあるものは、大きく言って「舞台装置」「劇場そのもの」も一つの記号と見ることができる。しかし、与える記号情報としては変化のしない「劇場」「プロセニアムアーチ」「舞台上」から何故、色々なシーンを想像することができるのか。それは舞台上における記号が俳優によって動かされているからである。 そこで「自然主義」は「交感」することによって、記号の意味内容を変化させる。

「一 舞台上の対象との直接的交感と、観客との間接的交感。 二 自己交感 三 その場にいないか、或いは架空の対象との交感。」(Станиславский. 1936. 訳p306)

 パントマイムでは単なる箱馬を「イス」として使ったり、「空を見上げる高台」として使ったりすることができる。箱馬を利用して「高原」をミメーシスすることによって観客に劇世界を立ち上がらせることができる。

 「自然主義」が「内的感情」のミメーシスであれば、箱馬を利用して「安心」をミメーシスすることによって「我が家」を表象することができるだろう。「自然主義」は「感じること」を重要視する。それは、「交感」が記号の動性を支えるだけでなく、劇世界を支え、コードを支えているからである。
 これは現在では広く一般に受け入れられ、「あの俳優はきちんと感じている」とか「感じなければ演じられない」などという言葉を耳にすることができる。

 もちろん、箱馬は「イス」ではないし、「高台」でもない。「自然主義」においても本当のイスを使う必要はない。それは箱馬であろうと、代替物であろうと、何だってかまわないのだ。しかし「自然主義」はパントマイムではない。パントマイムでは、箱馬を「イス」に代えるときに「交感」は必要ない。「座る」という動作(ミメーシス)さえあれば、記号の意味内容は変わる。
 無論、「自然主義」は「イス」をミメーシスしない。「イス」を表象するには「感情」は必要ないからだ。「イス」は付随的に「イス」であればよいのであって、記号内容を変換させることが「自然主義」の目的ではない。

 おそらく記号の動性で重要なのは「人格」においてであろう。舞台上に立てば、人間も記号の対象となる。そこでは人間も内容変更可能な記号だ。「気持ちが変化する」ことは記号の動性が支持することである。人間に付随する意味内容が変化する場合には、物語がコードになる。ショーパフォーマンスか何かで、あるコメディ俳優が、小芝居を違うキャラクターで二人以上演じたとき、観客はそのキャラクターの間の一貫性を見ないだろう。
 しかし、ある一つの物語の中で、一人の俳優が演じる同一のキャラクターの持つ静的記号が大きく変わったとしても(リア王が王様の格好をすることと、みすぼらしい格好をすることを)観客は「違うキャラクターだ」とはみなさない。それは、物語がコードになり、情報の不足を補ってくれるからである(リア王の場合では、「子供たちの愛を試す」という物語)。

 しかし、これは同様に物語がコードに依存している限り、同一の俳優が別のキャラクターを演じ分けることに対して、物語の一貫性がなければ成立しないことになる。ジキルとハイドがもし「同一人物の表の顔と裏の顔」ではなく、別の人間だという設定だとしたら、観客は混乱するだろう。
 「自然主義」において俳優は物語というコードを背負うことになる。この物語のコードを背負いながら、感情をミメーシスするべく、舞台上の記号の意味内容を「交感」によって絶えず変化させていく。

 ここから「自然主義」がどのような物語の展開をするかを読み解くことができる。「(舞台上における)現実の時間」と「劇中の時間」を分ければ「現実の時間」の断続的構成が「劇中の時間」を構成する。これはもちろん、観客の頭の中にしかない。俳優はシーンとシーンの間で「さも時間が変化したかのようなふり(ミメーシス)」をするだけだ。
 しかしこれは「現実の時間」のコードに拠っているために、時間を逆流するとか、人智を超えた時間の飛躍(1000年後に飛ぶなど)をするためには別のコードを劇中に構造化する必要がある。たとえば「私の記憶では」とか「一つの文明が終わり」などとディエギシスによってサブコードを提示しない限り、「自然主義」は「現実の時間のコード」を逸脱することはできない。

 しかし「自然主義」の「(舞台上における)現実の時間」は「劇場外の現実の時間」に相当(舞台上の一秒は、現実の一秒)しない。『ハムレット』において長い台詞を朗々と語ることは、必ずしも現実的な時間感覚ではない。独白だけでなく、オフィーリアを罵倒する台詞や母親への罵倒、ホレイショーへの抗議など現実的な時間に即するならば、罵倒された側、抗議された側はハムレットの台詞を待つことなく反論、格闘するだろう。
 ここでは「ハムレットの内面のミメーシス」という時間が与えられ、その時間の間、オフィーリア役の俳優は(次に与えられる)「オフィーリアの内面のミメーシス」の準備をしなくてはならない(罵倒に打ち震える、まぶたに涙をためるなど)。

 「自然主義」では「気づく」ことが許される、もしくは推奨される。現実世界であれば、人間の内面の変化はゆっくりしているだろう。リア王のように家族に対する内面の疑念や信頼は、「ある決定的な出来事」によって変化するのではなく、ゆっくりと醸造されていく。しかし、「自然主義」の場合は現実に即した時間によってミメーシスされるのではないので、「ある決定的な出来事」にキャラクターは「気づき」、そして内面の感情をミメーシスすることによってその変化を表象する。変化前のミメーシスと変化後のミメーシスの断片的連続によって、劇世界の時間が構成されるのである。

 観客はこの断片と断片の間の情報の落差を埋めようとすることで劇世界を自分の中に創造する。ここで断片と断片の間に共通のコードがなければ、劇世界の時間は生まれない。スタニスラフスキーは、「性格描写」の手法によって断片の中にある情報を最大化させ、共通の記号と差異化された記号を明確に前景化する。

「俳優を、戯曲の始めから終りまで導いて行く、その内的な努力の線を、我々は、コンティニュイティとか、貫通行動とか呼ぶのである。この貫通線が、戯曲のすべての小さな単位と目標に電流を通じて、それらを超目標の方へと向けるのだ。そうなってからは、それらはみんな、共通の目的に奉仕するのである。」(Станиславский. 1936. 訳p401)

 ここに俳優の仕事が生まれる。戯曲に内在しているか内在していないかは関係なく、戯曲に共通するコード(超目標)を見つけ、超目標から逸脱しないようにシーン、台詞を区切り、それら全てに記号を付与していく。与えられた記号は物語をコードとしながら意味内容を変化させていく。意味内容が変化しない限り、役は成長したり、変化したりしない。しかし俳優が変化するわけではない。俳優が与える「役」(ミメーシス)の意味内容の変化が、つまり「演じる」ということなのである。その技術が俳優の仕事となる。

 これは「自然に演じること」や「なりきること」こととは違う。「自然主義」はミメーシスによって与える情報の何が共通していて、何が違うのかを明確にすることである。
 内面の表象という意味では身振りはディエギシス的であるが、クセはミメーシス的である。ここでは「俳優」は気づくことに消極的であるべきであって、「キャラクター」が気づくことに積極的であるべきである。俳優のミメーシスされたキャラクターが「気づく」ことによって、キャラクターの内面がミメーシスされるのである。俳優が気づくことは、キャラクターにとってはディエギシス的である。(ここでは観客は常に「これは演技だ」と再帰的に俳優を見ている)

 人間は一貫性を持って生まれてきたわけでも、一貫性をもって全ての行動をするわけではないが、舞台上ではそれを余儀なくされる。もちろんこれは「自然主義」特有のものではなく「作品」として理解されるために必要な作業である。しかし「自然主義」が人間の「感情」をミメーシスしようとしたところで、本来的に乱雑である「感情」を表象することは不可能である。それは「ある一つの感情」であり、「革命闘争」なのである。

 ここで誤解なきよう訂正しておけば、当時のロシアの演劇状況は「紋切り型」だらけで「様式ばっている」ものであった。有名俳優は開演直前にしか劇場にやってくることはなく、芝居の前には形式ばったオーケストラが演奏され、観客はシーン毎に俳優に対して拍手を送る(今考えると、ブロードウェイのショーか何かのようである)。
 こうした「演劇のコード」に対して批判をし、演劇制度の改革を行った人物である。スタニスラフスキー自体は、それを修正するためにこの方法論を実践するわけなので「革命闘争」のための演劇を上演した、というわけではない。