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ハプニング、イヴェント、パフォーマンス!企画意図

2010/08/25

2010年8月20日、アキバドレスホールで「ハプニング、イヴェント、パフォーマンス!」というイベントを行った。

このイベントで私が何をしたかったのか、何が不足であったのかを書いていきたい。

特に、美術や音楽と違って上演芸術は、こうしたルポルタージュによってしか記録されないものであり、時代考証や過去の似たような事例を引きながら論じていかなくては、芸術としての位置づけを行うことができない。ゆえに、図式的な、理解をしたような文章の書き方になってしまうことをお許しいただきたく思う。

上演芸術は「作品」でもなければ「芸術」でもない。ただ、目の前に起きている事象の良し悪しでしか判断できないものである。しかし、その良し悪しが不当にも「売れていない」とか「知名度がない」とか商品的価値がないというだけで評価されないことは許されまい。

こうした「芸術」を取り巻く価値基準に対して、私がどのような立場を取っているのかも含めた上で、イベントを文章にして記録することを是非とも許していただきたく思う。

http://fleamaison.blogspot.com/2010/07/blog-post_24.html

■イベントの概要
「ハプニング、イヴェント、パフォーマンス!」は秋葉原にあるドレスアキバホールで行われた。当ライブハウスが定期的に行っている「オムニバスシアター」のディレクションを、私が努めさせていただく形でこの企画が実現した。

イベントには、NUDO、埼玉事変、内田聖良、宮原万智企画が参加した。
参加したアーティストは20代で、確固たる評価を与えられてはいない。いわば「無名の」若手たちである。

作品それぞれが良かったかどうか、客観的に見れば辛らつな評価を加えなくてはならないだろう。だが、ここでは作品の良し悪しを問うようなイベントではなかったし、ワークインプログレスを発表する場という感があったことを付け加えておく。参加したアーティストの面目を保つためにも。そして、そういう実験の場がアーティストにとって重要であることも付しておく。

従って、何も知らない観客にとって収穫のある場であったとは、お世辞にも言えない。

■自然の本性
正直に言えば、私は「演じること」を信じている。演じるということが、人間にとって自然の本性であることを信じている。こうしたことをアリストテレスから論じることもできようが、あまりに時代が違い過ぎるために、ここではイヨネスコから論じていこうと思う。

イヨネスコは不条理の演劇の時代に活躍した前衛的劇作家である。前衛を、スタンダードを脱構築するための運動であると主張し、前衛大会でも「前衛とは何か」という題で演説をした。

日本にも当然、寺山修司という前衛がいるが、私は「前衛」を目指しているわけではない。ダダのように全てを破壊すればいいと思っているわけではないし、イヨネスコのように脱構築するための前衛を想定しているわけではない。

私が考えているのは、自然の本性として演じることや絵を描くこと、歌うことが人間の営みとしてあるのだ、ということである。

この点で、イヨネスコと私の考えは一致している。ただ私は「前衛」や「ダダ」を目指しているわけではないという点を理解していただきたく思う。

■聖俗としての上演空間
近代的な劇場で想定されていることは、観客は座席に座り、上演によって感化されたり、感動したり、何か特別な経験をすることである。

この経験はマスメディアの流通経路に乗り、事前に情報が与えられてからチケットが売買される。このこと自体はいささか問題ではないが、少なくとも映画・インターネットの登場後「ドラマ」を提供するメディアとして「劇場」は不適切な場であるということがわかってきたように思う。

ラブレー「三一致の法則」は劇場という物理的機構を想定して「物語」を伝えるために構想されたと私は理解している。少なくとも「時の一致」は舞台装置が書割であったために、観客が誤解されないためにアリストテレス以降新しく追加された項目であることは、レッシングも指摘しているところである。

さて、ディドロから始まる「ドラマ(正劇)」は、今や劇場空間で再現されるべきものなのかどうか。もう一度ラディカルに問われるべきだろう。アリストテレス的な起承転結が想定された「ドラマ」は、今やテレビドラマにその座を事実上譲っているのではないか? 

この点を理解しようとしない保守派の演劇人がいまだにいるように思うが、戦後新劇の俳優たちがこぞって映画に流れていったことを、彼らはどのように考えているのだろうか。演劇が売れない時代の修行の場で、映画が才能を花開かせる場と言えばいいのだろうか?

アルトー、渡辺守章らが提唱するように演劇は聖俗の場であり、今ココでしか起こらないパフォーマンスの場である。

■パフォーマンス空間
当然、このように考える人は少なくない。演劇の醍醐味が「ライブ」にあり、一回性の良さを伝える公演に何度も出くわしたことがある。

しかし、演劇を場から構想すると言っても、それは同時に何も意味しないことにしかならない。どのような場に、どのようにしてという具体的な案が必要である。

そこで私が今回のイベントで想定していたのは、観客の参加である。ラディカルな問いかけをしつつも、現実に根本的に変わることはありえない。

ここで抜本的にはまだ変えられないと思ったのは「作品を発表すること」「舞台から客席に向かって情報を伝達すること」「芸術的価値があること」「チケット料金を取ること」などである。

だが少なくとも、クラブミュージックやお祭りなどのモードが生き残っているこの街で「観客の参加」に関しては変更できるのではないかと思った。

観客が黙って芝居を見る状態から、歌舞伎や演歌のように「参加しながら」見るようなイベントならば構想できるのではないか。それが今回のイベントの意図である。

■客席の改良
上演芸術にとって、観客のリテラシーは重要な要素である。リテラシーがなければ、我々は合わせなければならないし、リテラシーが高ければ実験的なこともできる。

リテラシーの向上は上演芸術にとって欠かさざるものである。
だがしかし、東京という市場で、演劇やパフォーマンス、ダンスに対するリテラシーは低いといわざるを得ない。特に東京は、連続性の中ではなく、西欧からの輸入・学生紛争と世代間の情報を断絶した形で舞台芸術が発展してきた。

時代のモードに支配的な影響を受けてしまう、この環境において観客のリテラシーが高まるチャンスがなかったのである。

しかし当然、アーティストは世界に追いつこうとする。観客と芸術家のこの断絶は、もはや絶望的である。

そこで、アーティストと観客のインターフェイスが必要であると私は考えた。このインターフェイスは、「演じることの本性」である。この点、私はある意味では無批判に企画を推し進めることにした。つまり、パフォーマーが楽しければ、観客も楽しいだろう、と。

逆に、もしも観客がつまらなければ、きっとパフォーマーもつまらないはずである。そうした公式を作り出し、観客の側にも「楽しい」「つまらない」という情報を発信するインターフェイスが必要だろうと考えた。何故なら、インターフェイスがなければパフォーマーは自分が楽しいのか、つまらないのかすらわからなくなってしまうからである。

そこでまずは、客席の改良が第一と考え、客席の改良に取り組んだ。それが今回の企画の最も重要な箇所である。


だが、この改良が成功だったかどうかは疑わしい。
模索しながらであったために、反省点は多く出た。

しかし、こうしたことは実は私たちは以前から何度も試みていた。映画祭のイベントでも、私たちは映画祭の後に観客を引き連れて川へ行くなど、「場」をどう作っていくかを構想していた。

今回もイベントも、その流れの一つである。作品の良し悪しではない、場の良し悪しがここでは問題であったのだ。作品は、場から生まれると思っている。良い場がそもそもなくては、良い作品は生まれない。だが、東京にはその「場」すらも用意されていない。数少ない、アゴラ劇場、世田谷パブリックシアター、座・高円寺などがその例である。

演劇にとって「場」は重要な問題である。
今回は、そうしたことが多少実現できたように思う。埼玉事変のパフォーマンスの際、観客はゴミのように丸めた紙を投げつけていたのだから。

本来であれば、こうした動きはもっとたくさんあってしかるべきである。一体いつから、観客は静かになったのだろうか。チェーホフを見るための静けさは、今や高尚な芸術を鑑賞するためのひとつのモードになっている。

観客が静かでなければ、芸術は生まれないのだろうか? いや、そうではない。私たちは歌舞伎や演歌、落語から生まれた大衆芸能の力を思い出さずにはいられない。ここは西欧ではない。ましてや、私たちは全てチェーホフではない。

映画やインターネットなどのニューメディアがドラマの覇権を奪った今だからこそ、私たちは、この「自然の本性」を信じるべきではないだろうか。私が言いたいことは、ただ一つである。「演じること」は楽しい。それだけだ。