セカイ系から見る芸能の形式

■1日本という国において文化は輸入されるのではなく、与えられる。
当然、日本においても茶道や剣道など文化として根付いているものもある。しかしそういったものは、日本において余りにも透明な色をしているために、後から再発見されることでしか文化として考えられない。
もちろん、ここには漫画やアニメなど最近の大衆文化・風俗などが入る。

■2文化が、その土壌(ないし市場)において成熟するためには、カネと権威が必要である。
文化にとってカネは血液であり、権威は父親のようなものだ。
芸術はまさにこの分類に属し、上から与えられる。芸術だけでなく、文化もまた制度上のものでしかなく、カネと権威によって名前を手に入れた架空のものに過ぎない。
しかし、これこそが形式を帯びるということであり、文化にとって否定的な意味は持たない。

■3文化には、その成長段階に「若さ」を利用する。
スポーツ、ヨガ、クラブなどは、教育制度を終えた人々が青春・若さをもう一度得ようとするかのごとく、その文化を享受する。
それは、人が過去に若かったからであり、若さが外部にしか見出せなくなってしまったからこそ、享受するのである。
そして、このイメージ(若さのイメージ)の提供者は性風俗、暴力を利用して自身のイメージを鍛え上げる(ファッション、モード)。
逆に「老い」によってイメージを鍛え上げる(将棋や囲碁など)こともあるが、これも同様な理由による。つまり、「新しい青春」「新しい若さ」を得ようとするに過ぎない。
しかし、この性質によって、性風俗、暴力を利用するだけの文化は成熟期に入ることはできない。
イメージの主たる創造者が若さを内在している限りにおいてしか、イメージを作ることができなければ、若さが外在する人間にとって、それは享受可能なものにならないからである。
つまり、若さ=性風俗、暴力は形式化されなくてはならない。

■4カネと権威が文化にとって否定的意味を持つのは、この時である。
享受不可能な形態を取る文化の初期段階においてカネと権威を持つこと=名前を得ることは、縮小再生産のデフレスパイラルを生み出し、衰退するしかなくなってしまう。
(漫画・アニメに問題があるとすれば、ここだ)
逆に文化が「若さ」(「新しい若さ」でもよい)を失ってしまったとき、人はカネと権威のためにしかその文化を利用しなくなる。
これも同様にデフレスパイラルを生み出す。

■5どの国でもそうだが、他国の文化を輸入するということは、文化の成長段階を迎えないままに「名づけ」「権威化」した形で輸入するということである。
これが風土に合致し、若さを手に入れることができれば、それは「定着した」ことになろうが、合致しない場合には消えていく。
文化にはこういった競争的性格も持ち合わせているのだが、オリエンタリズムが発動する国においては、自国の文化は軽視され、オクシデンタルから輸入する文化が重要視されるという傾向を持つ。
オリエンタリズムの中では、文化は既に自国から生まれないのである。(反動として、右派がルネッサンスと称して文化を生み出すこともあるが、それは再発見される形でしか生まれない)

■6日本にある「芸術」と「芸能」という違いは、ここに起因する。
「芸術」はなるほど、オクシデンタルから与えられ、既に名前を持っている。
しかし「芸能」は、それに名づけることは非常に難しく、いつもルネッサンスという形でしか生まれ得ない。
(これはヨーロッパにおけるギリシャ再発見=中世キリスト教に対する文字通りの”ルネッサンス”もそうであるが。特に神聖ローマ帝国におけるギリシャ・ローマ回帰を想起されたい)

■7だがこれが、西洋化するアジアの小国という図式であれば、悩むこともないのだが、これをさらに複雑化するのが一神教の精神と多神教の精神にある。
残念ながら、日本人には「崇高さ」というものが理解できないように思う。(もちろん、ある日本人には理解できて、ある日本人には理解できないのであるが、話をわかりやすくするために「日本人」という言葉を使う)
一神教の精神にとって、崇高さとはつまり、神が我らに与えたもう自然のことであり、純粋な穢れなき外部なのである。
しかし多神教の精神にとって、自然は同化しうる自然であり、自然そのものも意思を持ち、我々に同化しようとする。つまり、どちらかが助けようとするのではなく、互いに溶け込もうとする。
それは多神教にとっては、命が「人間界」と「動物界」(密教でいえば)「仙人界」を行き来し、現実に見える姿はかりそめのものでしかなく、どんな命でも神になることができるからである。
つまり、「不完全な私」はいつか神になるのであり、つまりは同時に「神」なのである。
こうした精神性を持つものにとって「崇高さ」とは、神を超越する概念=無である。無は我々に立ちはだかるものでも、我々を脅かすものでもなく、いつか到達するであろう安寧の地であり、同様に幸福すらも感じない「無」そのものなのである。
「隙間」や「余白」「暗闇」といった部分に、崇高さを感じるのである。

■8つまり、我々にとって文化は誰かから与えられるものではなく、いつか自分が到達するであろう「道」のことなのである。
それは自らが対象から考察する精神の動きのことであり、自らが他者と出会う場のことなのである。
世の女性たちが持つ文化は、ここに属する(ヨガ、ガーデニング、パッチワークなど)。
しかし他方では「芸術」と呼ばれる、あらかじめ名づけられた文化も入り込んでいる。(絵画、演劇、映画、彫刻、小説、音楽など)
これは花開くもの(音楽、映画)もあれば、花開かないもの(絵画、彫刻、演劇)もある。
これが花開かないのは、若さを形式化することができなかったことにある。
(私は演劇が専門なので)演劇における新劇が日本に根付かなかったのは、新劇が若さだけを武器にして、それを形式化することを怠ったからである。これを証明するように、アングラや舞踏は海外で評価をされ始めている。木下順二は海外でも流通しているが、日本演劇にはずせない千田是也は流通していない。
そう考えると、やはり「芸能」という言葉によっていまだ名づけられていない文化活動の領域を「芸術」と区別しなければならない。
歌舞伎や演歌、落語に限らず、お笑い・漫画やアニメなども芸能に属するだろう。(当然、芸能人は芸能をする人である。)
日本のアニメを代表する「エヴァンゲリオン」はまさに、芸能に属するもので、そのドラマツルギーは、一神教的な存在にも、全体主義的な存在にも屈しない、引きこもりがちな「ボク」が主人公である。
けれど、輪廻を繰り返すことで神になる「私」は、道を精神の土台として碇シンジを肯定する。
この精神性は世間一般ではではセカイ系と呼ばれている。

■9このセカイ系は、ただしいつまでも自分の中に若さを保っているわけにはいかない。
その若さを、いつの日か外在化し、形式化しない限り、誰とも共有のできないもので終わってしまう。
外から与えられて根付く文化もあるが、内側から起こり、形式化される文化もある。
つまるところ、私が目指しているのは、こうした内側から起こる文化であり、それは民衆演劇と呼ばれてもいるが、「芸術」や「演劇」という名づけられたものではない。
このセカイ系な私たちの精神性を、形式化するということが、私の目下の課題なのである。