演劇におけるリアリズムの日欧比較2

ミメーシスによって継承する知

アリストテレス的振る舞い、キリスト的振る舞い、孔子的振る舞い。
文字によって弟子に知を継承するのではなく、自身の行為によって思想を示す。それをミメーシスという。

K・イーラム(1980)によれば「(観客は)ディエギシスよりもミメーシスされた方が劇世界に入り込める」のである。西欧のリアリズムもまた、間接話法から直接話法へと文体が移ることで発展する(参考:E・アウエルバッハ『ミメーシス』)。

けれど、西欧において知は文字によって継承される。文字に書かれた直接話法の文体を司祭が伝えることで、いやおうない態度の表明を迫らせる。これは新約聖書における暗喩法を生み出していき、近代的文学においても同様の発展を見せる。ある社会問題を直接的に取り扱わずに、暗喩的に取り扱うことで観客に態度の表明を迫らせる。これが西欧のリアリズムである。

ここで重要なことは、直接話法を取り扱う司祭(もしくは俳優)が劇世界(W2)を前提としている点である。「劇世界が存在していて、もしくは存在していたとして、あなたはこの問題をどう考えますか?」という問いかけになっているのである。このとき、話者の身振りは前景化されない。

しかし、三島由紀夫の死はこのような形では説明できない。三島由紀夫もまた小説家である。三島自身の作品を前提とするならば、三島は自殺をする必要はなかった。しかし三島は自身の言説を伝えるために「話者」として、自殺という身振りを行う。このとき、話者の身振りは前景化され受け取り手に情報を伝達する。

この現実世界でのミメーシスは「物語」、「虚構」もしくは「劇場」というフレームワークを前景化したミメーシスであると説明することができる。

劇場において、俳優が架空の設定の上で生きることもまた、ミメーシスであるが、俳優が舞台上で指呼表現をすることは、さらにミメーシス性が高い身振りだといえる。さらにいえば、「私たちがあなたの前で演じます」というフレームワークを提示することは、劇場においては最も高次なミメーシス性を持った行為であるといえる。

三島の自殺は極論めいているが、日本で活動し、海外でも評価される舞台芸術は、なるほどミメーシス性が高いものが多いと想起されたい。西欧における近代リアリズムは「暗喩的」で「フレームワークを前提とした」ミメーシスである。日本の場合は「直示的」で「フレームワークを前提としない」ミメーシスであるということができる。