卒業論文『演劇の記号論~スタニスラフスキーを読む~』 ②

■「自然主義」のコード

 「人生には、自然以上に美しいものはないから、自然が、不断の観察の対象となるべきである。」(Станиславский. 1936 訳:p140)

 「自然主義」は「自然」ではない。それは、観客の中に存在する「真実性」によって支えられている虚構に過ぎない。したがって、「自然主義」はコードである。ただし、伝統芸能やミュージカル、内輪のアマチュア演劇に特有のコードではない。それは「演劇」というものに触れてこなくても解読可能なコードである。「自然主義」のコードは日常生活の内的感情に属する。その意味で、「自然主義」は「自然」のコードなのである。

 しかし、「自然主義」は完全なる「自然」になることはできない。完全なる「自然」になることは、劇場を捨て、演じることを捨てることになるからだ。だから「自然主義」は演劇のコードであることから逃れることはできない。観客は開演のアナウンス(もしくは暗転)によって「劇が始まる」ことを無意識に承認し、劇が終わって俳優が舞台上の前に並んだときに「劇が終わる」ことを無意識に承認している。「われわれはみんな、演者とか劇作家として、劇作品や上演の構造化と理解を支配する若干の劇と演劇の有力な約束事を多かれ少なかれ直観的に承知している」わけだから、その中に「自然」性や「真実」性を見つけようとする。(ELAM. 1980 訳:pp.58-59)


「我々の目的は、ただ人間精神の生活を創造することだけでなく、『それを、美しい、芸術的な形式で表現する』ことでもあるのだ」(Станиславский. 1936 訳:p27)


 「これは虚構である」ことは「自然主義」においても失われることはない。「自然」の中に「虚構」があるのではなく、「虚構」の中に「自然」がある。したがって、「自然主義」においても演劇の表象=代表、劇場の非日常性は支持される。アテネのポリスが交代交代に同じ役を違う人間が演じたとしても、土着の伝統芸能がそこに住む住民によって受け継がれていたとしても、「自然主義」は「専門の俳優」によって代表される。つまり、日常世界の中で、代表されているわけではない(つまり生きている全ての人間の)感情の表象は、「自然主義」ではないのである。

 記号論の伝統に従えばコミュニケーションは受信者と発信者の相互の記号の交換によって成立するが、演劇では相互に交換されることはない。舞台上から観客に向けて、常に情報が発信される。これが逆転することは、上演中には(観客が出て行く、笑う、抗議などを除いては)ありえない。スタニスラフスキーの言う、「自然主義」とは「自然主義演劇」のことであり、「自然主義」という虚構に支えられている演劇様式のことを指すのである。従って、「役を生きる」というときには「虚構であるが」という留保が想定されている。

 「演技には、身振りのための身振りに過ぎぬものは、一つもあってはならぬのだ。諸君の動作はつねに、目的を持ち、役の内容と関係づけられねばならない。」(Станиславский. 1949訳:p66)


 この「自然主義」のコードを支えているのは、まぎれもなく「自我」の存在である。「自我」が人間のうちに存在するかどうかは置いておき、「自我」は「人間は感情や理性、信念に基づいて行動する」という概念=虚構を観客に与える。「自我」を持っているのは俳優ではない。劇中の人物=役である。俳優は自らに、新たな「自我」を与えるのではなく、役に新たな「自我」を与える。

 「役を生きる」とは、役になりきるのではなく、「役」を通して共有される「ある人物の自我」を、その場面において「再現する」ことである。

 「自我」を「再現する」とは、「感情―行動」の道筋を立ててやることである。原因があって結果がある、結果には必ず原因がある、という近代の発想法によって観客の感情を代表することが「役を生きる」ということである。

 「自然主義」のコードが強固なのは、この「感情―行動」に忠実だからである。たとえベケットのような不条理劇を上演したとしても、メーテルリンクのような夢幻劇を上演したとしても、「感情―行動」に忠実に舞台上で身振り、発話を行えば、特有のコードを持たない観客であっても、その行動の意味を推測することができる。

 しかし、それはチェーホフの戯曲ほど戯曲の表象(テクスト)に現れているわけではないので、演出家および俳優は、不条理劇、夢幻劇の戯曲の表象(テクスト)から「感情」を抽出し、「行動」に結び付けていかなくてはならない。

「そのような課題のためには私たちは経験があさく、また私たちの内面的な技術は十分に発展していなかった。識者は俳優の失敗を私たちの芸術のリアリスティックな傾向によって説明した、それが象徴主義となじまないというのである。しかし実際には原因は別の、ちょうど正反対のものであった。イプセンにおいて私たちは戯曲の内面的生活の領域で十分にリアリスティックでなかったのである。

 象徴主義、印象主義、その他芸術における洗練された主義は超意識に属し、極自然的なものの終るところにはじまる。しかし舞台上における俳優の精神的および肉体的生活が自然裡に、無理なく、正常に、自然そのものの法則にしたがって展開されているときにのみ、――超意識的なものはその秘庫から出てくるのである。自然にたいしてほんのわずかな強制を加えても、――超意識的なものは、粗野な筋肉のアナーキーから逃れて、精神の奥深くにかくれてしまう。」(Станиславский. 1926b 訳:p171)


 だが幸運なことに「自我」は「意識」とは別に「無意識」という虚構を支えてくれる。戯曲の表象(テクスト)の中から「感情」を探そうとするとき、「無意識」を設定しても良いのである。ハムレットが王を殺害するための「動機」は、必ずしも父親が殺されたことによる復讐の感情でなくとも、エディプスコンプレックスのような「無意識」による闘争の感情であっても説明することができるだろう。

 ある時代によっては、オフィーリアに対する愛、母親に対する愛情の裏返しの表象(テクスト)には「無意識」による解釈のほうが説得力を増す場合があるだろう。しかしこれは「自然主義」=「感情」のコードであって、例えば封建制の日本のコード「自分の身内が殺されたなら、仇討ちをするべきである」(暗黙裡には「仇討ちはしなければならない」となる)であれば、人間の無意識から行動に移さなくても、社会制度によって行動に移す個人が描かれたって、なんら不思議はない(「仮名絵本忠臣蔵」など)。

 しかし歌舞伎においても「たいていの新歌舞伎は地方(音曲)がなく、物語が役者のセリフによって進行されてゆく」、「近代の自我というものの立ち上がり」が「人間」を舞台の中心話題に変えた(小林昌廣:時評『新歌舞伎という古典――岡本綺堂の作品から』、雑誌『舞台芸術08』より)。そもそも、ハムレットは不文律のうちに王殺害を企てるのではなく、幽霊と邂逅し薫陶されるという使命=言葉を持って王を殺害しにいくのである。

 こういう意味で、「自然主義」は「自我」というコードに支えられた、俳優による一方的記号伝達のコミュニケーション=演劇であると定義することができる。俳優はこれ(自我のコード)を裏切ってはならない。裏切った途端に、舞台上で俳優が演じているという「事実」があったとしても、「自然」性や「真実」性は、すべて「虚構」、作り物になってしまう。


「多くの俳優が犯す過失は、彼らが、結果を準備しなければならないところの、行動のことを考える代りに、結果のことを考えるということだ。行動を避けて、いきなり結果を狙うと、諸君は、臭い芝居にしかならないような、空々しいものをこしらえてしまう。」(Станиславский. 1936 訳:p174)


 しかし、コードを逸脱することは不可能である。スタニスラフスキーは『芸術における我が生涯』(上)の中で演劇がコード化していくことの危うさを述べている。


「『一般』――これこそは演劇にとって怖ろしく、破滅的な言葉である。それこそがまた、私とモリエールのソタンヴィルのあいだに立って、石造の壁のように、私たちを引き裂いていたものである。」(Станиславский. 1926a訳:pp.255-p256)


 これは「自然主義」が頼っているコードが「現実」に存在しているものだから取れる戦略である。演劇のコード、サブコードをことごとく破壊しても、「感情」に支えられた強固なコードが「自然主義」の演劇形態を支持している。

 だが、これは同時に演劇の共示的作用を殺し、外示的作用に依存することになる。その結果として、モリエールのような中世フランスの戯曲を「自然主義」的に演じようとするとコメディにしかならないような「違和感」のあるものになってしまう。

 他方で、伝統芸能化した演劇様式は外示的作用ではなく共示的作用を強く持っているので現実世界のコードが変わったとしても、表現様式はそのままの形で残る(京劇、歌舞伎、能など)。演劇の場合、映画や小説、テレビドラマと違い、その時代のコードが「特有のコード」として残り、それが時代を経てもそのままの形で保存されるというケースがある(これは伝統芸能と定義される)。これは演劇だけでなくお祭り、宗教儀式など、コミュニティを形成する上で必要な「言語」として残っている。

 そこで、西洋演劇では歴史的テクストを現代的に「解釈する」ことによって、テクストを現代のコードと刷り合わせようとする。無論、日本における歌舞伎や能においても現代のコードにあわせようとする試みは存在するが、やはり「歌舞伎のコード」や「能のコード」を基盤にしているところで、西洋演劇における「テクストの解釈」とは一線を画す。

 「自然主義」は「自我」や「意識/無意識」といったフロイト的心理学をコードとして用いているが、「意識」を媒介としない心理学を表象することはできない。

 たとえば「反射」を例に挙げる。「反射」は骨髄反応によって引き起こされ、「熱い」と認識する以前に筋肉が緊張する。熱いやかんを触って「熱い!」と驚く演技をしようとしても、「熱いこと」を「感じて」から手が動くわけではない。「腹が立って、人を殺してしまう」ことや「嬉しくて、つい笑ってしまう」ことを演じるためには、(役ではなく)俳優自身が「そう感じることを操作する」という訓練(ディシプリン)が必要なのだ。しかし、これは人間がどうあがいても、到達することができない境地である。物語の結論がわかっているにも関わらず、知らないかのように見せなければならない、という演劇の命題。だが「到達したように見せる」ことは可能であるし、そのようなものを表象する戯曲でなければ、そんな必要もない。


「『或る役を百回目に演ずる際に、これから起ろうとしていることを忘れるにはどうしたらいいのでしょうか?』、と僕は尋ねた。 『そんなことは、できないし、またする必要がない』、とトルツォフは説明した。『演ぜられる人物は、これから先きのことは知るべきではないにせよ、依然として役にとっては、一々の現在の瞬間をより十分に味わい、より十分にそれに身を任せることができるように、パースペクティヴが必要なのである』」(Станиславский. 1936 訳:p273)


 けれど、スタニスラフスキーは、そこにも「真実」性を求めるあまり、「システムに基づくスタニスラフスキーの稽古は捗らず、いつまでたっても上演に漕ぎ着けない」とミネロヴィチに指摘されるにいたるのである(『芸術におけるわが生涯』「スタニスラフスキー自伝の余白に」に記載:p. 381)。しかしこれは、晩年のことである。