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近代以降の演劇理論はリアリズムの完成と言っても過言ではないだろう。現代の演劇理論になってリアリズムを相克する運動が出てくるものの、今日的な意味で「演劇」という言葉を使えば、それは大概リアリズム表現のことを指す。
舞台芸術におけるリアリズム表現は「舞台と客席」の信頼関係を前提に成立している。現実とによく似た表現から観客は「何か重要なこと」を読み取ろうとする。
それは宗教劇における比喩形象から生まれた文脈であり、宗教という概念を超えたときには「社会問題」という形で成立をする。
だがしかし、このリアリズム表現は「舞台上の身体」もしくは「舞台上の事実」をないがしろにしてしまう。舞台上で行われていることは全て虚構であるという担保の元(舞台と客席の信頼関係)において行われるわけだから、目の前の行為には注目させない(前景化しない)。
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それを相克するのがパフォーマンス理論ということになるのだが、そもそもアジアの芸能は身体表現が前景化されていた。
(たとえば日本では)歌舞伎や落語では上演者の技術が問われることになるし、身振りが記号化し、作品を横断して登場する。
これは煎じ詰めて言えば身体表現を前景化してきた作業だったのだといえのではないか。
「作品」という信頼関係によって「虚構」を成立させてきたリアリズム表現に対し、行為から人間の生き様や軌跡を追おうとするアジアの芸能。
それは歌や踊りと深く結びつき、「私があなたに物語を送る」=琵琶法師的存在だったのではないだろうか。
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日本においては、西欧式のリアリズム表現はすっかり定着した。
けれども不幸なことに伝統芸能との文脈の共有が果たされておらず、現代演劇は常にオリエンタリズムの罠に引っかかってしまう。
そこで必要なことは伝統芸能との演劇理論の融合である。
歌舞伎や落語のように、物語を語る身体が問われるということは、台詞や身振りが直接話法としてではなく、常に間接話法として捉えられるということだ。
しかし伝統芸能の弱点と言えばコードが陳腐化してしまうことである。型が決まってしまえば上演者はそれを真似するだけになってしまいがちだ。それを乗り越えるためにも、自然主義リアリズムは「役になりきること」「自然でいること」を目指してきた。
間接話法の側も、これを無視して次に進むことはできない。
私が提示する解決策の一つは、現実世界に見られる間接話法を物語上で配置することである。
つまり、「演じる私」を構造化して物語に組み込むという方法である。
これによって「演じる俳優」の身体表現を前景化することができるし、「物語の中の登場人物」の行為と結びつけることができる。
私はこれを「ミメーシス」と呼ぶことにする。ある身体表現が見ている人に対して、架空の世界を創造させるきっかけになること。アリストテレスはこれを「悲劇の目的」と合わせて論じたが、ここでは劇全体まで視点を広げずに、「行為」の点から述べたものである(ホラティウスのいうミメーシス=模倣とは立場を異にすることを付け加えておく)。
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間接話法とは少し異なるが、指呼表現も似たような効果をもたらしてくれる修辞法である。
「これ」「それ」という言葉が舞台上の事実を指すにも関わらず、物語の視点からも回収できるような演技を指す。
指呼表現は、自然主義リアリズムが発明したものであるが、同時にリアリズムの特徴である「作品という信頼関係」を壊すものにもなりえる。
舞台上に存在するもう一つの「リアル」が、この指呼表現なのである。
私は、リアリズム表現ではない演劇理論の方向性として、「間接話法」と「指呼表現」を提案したい。
この二つは、ドラマがぶち当たる壁を、きっと乗り越えてくれるだろう。