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『演劇学の教科書』から読み解く

■『演劇学の教科書』より抜粋

パフォーマンスの概念を持ち出して、「舞台をつくること」がドラマ(劇)的な世界を築くことをせず、また舞台にある参照事項以外のなにも前提とせず、その本質が身振りや行為を露骨に見えるかっちで具現化することでしかないのだから、「舞台をつくること」は模倣から完全に手を引くことになる、といったところで、表象=再現の問題は西洋演劇の約束ごとや観客の精神にあまりに深く根をおろしているわけだし、それを忘れてしまうというわけにはいかない。

(『演劇学の教科書』「第一章 劇場に行くこと」p53, クリスティアン・ビエ, クリストフ・トリオー, 第一章監修:八木雅子, 国書刊行会, 2009年)

■約束事=文化
上に挙げた抜粋が、(日本のみならず)演劇関係者にとって自明のものとなれば「演劇」が絵画や写真、音楽などの諸芸術と比べて光輝いて見えるようになるのは間違いないだろう。

もっと具体的にいえば、観客が上のことを了解していれば「劇場」はアクチュアリティそのものとさえ言えるような状況が訪れるわけであり、大そうな「理想」である。

しかし、上の理念が創造側にも観客側にも伝わっていかないのは形骸化という問題であろう。その最たるものは「自然主義リアリズム」であると考え、私は自然主義リアリズムを相手取って批判してきた(していく)つもりだ。

仮に「演劇」が上の目標を達成したところで、別の名称に代わるジャンルが現れ形骸化が起こることだろう。だから、そんなことにやきもきしていても仕方がない。

ただし、その「深く根をおろした」ものが「文化」だとしたら私たちには一つ考えなくてはならないことがある。

それは、日本演劇史という文脈において自然主義リアリズムが根付いているのかどうか、ということである。
ここであえて「日本」を相手取る必要はなかろう。「自然主義リアリズム」が「演劇」という諸相の中の方法の一つでしかない、という了解を得ることが肝心なのだ。

さて、僕たちが根を下ろしている土地はどうか。確かにリアリズムを演劇のものと考える人もいるだろうが、劇場に足を運ぶ人の圧倒的多数は誰か。「ミュージカル」ではあるまいか。

演劇関係者はこのことを誤解してはならない。自然主義リアリズムが主流のように見える環境も、新劇運動が作り出した遺跡に過ぎず「現代演劇」はいまだ「近代化」という術中の中にいるということを。

従って、我々が上に挙げた理念を読もうとするならば、ミュージカルや歌舞伎・能・ショーパフォーマンスを相手取らなければならず、新劇やアングラも小劇場演劇も、さらに言えば西洋演劇も「同じ敵を有する仲間」と捉えるべきなのである。

小さい部分の差異ばかり強調して、観客も俳優もシステムも共有してこなかった日本の演劇史のツケが回ってていると、自覚をするところからはじめたい。