以下に引用するのは、いずれも「第三章 演劇空間のはたらき」の末尾に掲載されているものである。
演劇がドラマ(劇)を見せる場としてではなく、観客といかなる関係を結ぶのかが問われるべきであるという立場に立脚した重要な部分である。
演劇人が陥りがちな「理論的な」演劇に拘泥すべきではないと釘を挿しつつ、見た目の面白さだけでは観客を魅了することができない現状の隙間を上手く縫った言葉である。
現場および演劇の制度を作っている側の人間が、(以下の引用によって)既存の演劇の制度を脱構築する努力が求められていると肌に滲みて感じるところだ。
以下、引用。第三章 演劇空間のはたらき
「喜びを通じて彼らの注意を自然に記号に集中させるという考えに立ち戻ることが、実に大切だと思われる。知識を必要とする/専門技術的な/負担となり最新の解読作業を観客に課すのではなく、公衆=観客は多少とも意識的に解読作業を楽しんで、気持ちが動かされるにいたるという考えに立ち戻るべきなのだ。」
「観客が喜びを感じながら記号の全体を理解し、解読するためには、記号は、まさに観客に向けられ、観客を驚かせるとともにつねに解釈可能で、自分のものにすることができ、演戯を生み出すものでなければならない。」
「逆に演劇は、イメージによってイリュージョンを生み出す作業から身を引き、信じるべき虚構と見せかけの世界を表象するのではなく、演劇の空間そのものを、現在=現前(プレザン)の場、具体的でありつつ抽象的でもある場、つねにつかの間のものでしかない場、演戯と美学の「シニフィアン」の作業場として肯定する方向に向かうことができるのである。」