「活動休止、あるいは狂気的な宣言文」2013.06.18

 こんにちは。わざわざ、ここまでリンクを飛んで来ていただいて、ありがとうございます。よこたたかおです。
 今回『紙風船』の上演をもって、上演活動を一時休止したいと思います。

 活動休止というか、上演のストライキ宣言と、僕は言い直したいと思います。

 さて、それは一体どういう意味か。ちょっと興味がある人は、下記の文章までお読みいただければ幸いです(相変わらず、長いです)。

 上演活動の休止の最大の理由は、「客がいない」ことに尽きます。もちろん、僕の作品を好きで見てくださる方もいますし、こんな言い方は少しこれまで見てくれた方に失礼だったかもしれません。もう少し正確な言い回しをすれば、観客層の広がりを持てなくなったということです。
 これには少しばかりの説明を加えておきたいと思います。これまでNUDOでは、超低予算で、約30万円程度で作品を作ってきました。しかし、観客は毎回100人か、それに満たない程度。チケット料金が2千円だとすると、20万円の収入で、超低予算であっても赤字続きでした。
 それでもこれまでは、作品を作ることに意義を感じていたし、良い作品を作ればお客さんも増えるだろうと楽観視してきました。しかし、ある時から、観客が増えないのは僕の作品だけではなく、多くの同世代の演劇人が動員数を増やすこと、観客層の広がりを持つことができなくなっていることを知りました。
 無名の演出家にとって、自主制作的プロダクションで俳優やスタッフを集めることが困難であることは想像いただけることだと思いますが、それ以上に絶望的な状況なのは、やはりなんといっても「見てもらいたい人に見てもらえない」ということです。
 インターネットがあるとはいえ、結局、無名の劇団の情報にアクセスしてもらうことは極めて困難ですし、多様な価値観・生活スタイルの中で、わざわざNUDOの芝居に足を運ぶという選択を取るためのバリューを付けるためには宣伝にお金を出す必要があり、産業として成立する程度までバジェットがないと、結局「演劇は成立しない」のです。
 
 それでも自分としては、必ずしも経済的に成立しなくても、コンクールであるとか、業界関係者の集う場での試演会であるとか、学術的な場所であるとか、そういった内向きの活動であっても演劇の発展に寄与できれば構わないと思って活動を並行していました。
 しかし、どんなコンクール、試演会にも取り上げられませんでした。
 そして更にいえば、学生演劇の時代から付き合っていた俳優やスタッフは、悉く自分の活動から離れていき、一緒に芝居をやる仲間すら失っていきました。
 全てひっくるめて言えば、自分の活動していける場所が、どこにもないのだな、ということが新たに分かったのです。

 ただこれは、演劇の死を訴えたいわけではなく、また自分に才能がないことに気がついたという告白をしたいわけでもなければ、充電期間に入るからまた活動再開する時に見に来てくださいねということをお願いしたいわけでもありません。傲慢な考え方であることを承知の上で言わせていただければ、自分のような立場にいる演劇人が少なくないということを訴えたいために、上演のストライキ宣言をすることにしました。
 一番分かり易いメルクマールは、去年の岸田國士戯曲賞の岡田利規の発言でした。

「私は原則的に、オルタナティブな形式を用いてコンサバティブな価値観が提示されるのはたちの悪いカムフラージュのような気がする。そういったものに対しては原則的に警戒心を抱いている。」(第56回岸田國士戯曲賞選評。引用元:http://www.hakusuisha.co.jp/kishida/review56.php

 かつてこの賞によって(業界的に)有名になった作家自身が、その賞に反目しているわけです。そんなこと、岸田國士戯曲賞の歴史の中で、恐らくはなかったことでしょう。
 ここで表明されている「違和感」とは何か。それは、演劇の発信者にせよ受信者にせよ、上演を取り巻く経済圏にいる人たちの輪が、非常に閉塞的で、小さくなってきていることに対するものではないかと思います。演劇は、確かに単発の企画としては規模が小さいですが、全体の市場からすれば、決して小さいものではありません。にも関わらず、この10年で何故急に演劇の経済圏が「閉塞的」になってきたのかといえば、それは演劇全体がリテール・セーリング的になってきた、言い換えれば有象無象の小規模の上演が跳梁跋扈するようになり、個々の上演の相対価値が著しく低下したということではないかと思います。現代社会を説明する用語に合わせてみてもおかしくない状況。つまり、人口増加に伴って分業が一層進むことで、個々の人間が担う役割が分散し、労働価値が著しく低下している状態。個々の上演の価値が(経済的な理由だけではなく)低下してしまっているという状況に置かれてしまっているのではないかと思います。
 そんな状況の中で、「上演」に足を踏み入れる気になれない。それは僕だけではないと思います。有名作家でさえ、自らの仕事の価値が減じられ、年に何本も新作を作らなくてはならない状況です。「マーケットのセグメント化」(市場細分化)という言葉によって一見合理的に説明されているようではありますが、自らを芸術の素材とする演劇にとって、それは自分自身を「セグメント化すること」つまり、分断することが要求されているのです。そして、この微細なまでにセグメント化したマーケットの中で表現活動を続けていくことの帰結先はどこかと言えば、それは帝国主義的な振る舞いをすることが出来る「突出した才能」と「群集としての観客」でしょう。
 ……これ以上は、わざわざもう説明するまでもないと思います。芸術活動が「私的な営み」であり「自己の表現欲求を満たす活動」であると考えられている限り、小さい公演規模で上演活動を続けていくことは、それ自体がこの保守化する「演劇界」に手を貸すことになるのではないかと思います。

 僕は、そういう理由で上演をしない演劇人が少なからずいると思っていますし、そう確信しています。別に、どこかで吹き込まれたとか、どこかで裏口を合わせているということは全くありませんが、勝手にそういう演劇人に共感し、同じ志を共有していると思い込んでいるので、上演のストライキをすることにしました。そう、これは個人的な運動なのですが、潜在的には連帯された抵抗運動――まさにストライキなのです。

 とりあえず、期限は一年間。状況が変わらなければ、更に一年と続けていくつもりです。

 かなり身勝手な言い方ではありますが、僕は今、日本は粛清の前夜を迎えているのではないかとすら思っています。21世紀の粛清は、血が流れることもなく、誰にも知られることなく、淡々と行われることでしょう。従って、その前夜も誰にも認められず、前触れの予兆も誰にも察知されることはないのです。だからせめて、こうして今我々が置かれている状況が戦争を準備しているのだということを目に見える形にするために、こうしてありもしない妄想的な発言を、インターネットという網の目の中に残しておこうと思います。……もちろん、これが妄想で終わり、僕が狂人であったならば、こんな文章は早々に忘れ去られ、理解されずに消えていくと思います。僕も、できればそうあって欲しいと思っています。

>演劇関係者の皆さん

良かったら、一緒にこの上演のストライキ運動に参加しませんか?
よこたたかお