■ 僕が以前から稽古場で言っている「祈り」の概念について、今まで蓄積した演劇論から展開していこうと思う。
「祈り」に近い演技は、あまり多くは見られない。しかし、時として見られることがあり、僕はそれを「すばらしい演技だった」と称する。
you tubeで見つかったので、一つピックアップしておく。
僕はこのダンサーについてはあまり詳しくないが、かなり素晴らしいセンスを持っていると思う。ニジンスキーを称えた人であるが、ニジンスキーの振り付けはニジンスキー以外には踊れなかったであろうところが「伝説化」されるのではないかと考える。
しかし、なぜニジンスキーの振り付けをニジンスキーしか踊れなかったのかを考えてもらいたい。 それは、技術的な問題ではなく、何を美学とするか、何を感じるかということであると考える。
■「客席に注意を向けない」
これは、多くの演劇理論が支持するところであるが、なぜ客席に注意を向けないことが良いのかを考えたい。
ミメーシスの概念は、「観客は情報の差異を埋めようとする」ところから支持されるわけだが、観客は自分で情報の差異を埋めようとすることで、劇世界を脳内に立ち上げることができるのである。
従って、一方的にではなく、双方向的に劇世界を立ち上げるためには「客席に注意を向けない」ことが支持されるのである。
■「内的感情」
パフォーマーのする想像によって、ダンスにしてもピアノにしても「多少の変化」が起きることは経験的に知ることができる。
おそらく、客席から演技を見る場合にも、その多少の変化をかぎとっているに違いない(これを論証するものはない)。
これを演劇の理論でいえば「内的感情」と言う言葉が当てはまる。
上に上げた動画において、同様の振り付けを内的感情抜きに演じると「滑稽」になってしまう。しかし、ニジンスキーというダンスの神へのリスペクトを込めることで「内的感情」を高めることで、ニジンスキー的振りを演じることができるようになる。
これは、you tubeに挙げられている他のニジンスキー振り付けのダンスと見比べてみるとわかりやすい。「春の祭典」などは、私から見ると滑稽に見えるのだが、みなさんはいかがだろうか。
「内的感情なし」
「内的感情あり」
■「自己交感」
この言葉はスタニスラフスキーの言葉であるが、「自分自身と、架空のキャラクターを感じる」ことである。
この自己交感は内的感情を高めるために必要である。
また、「俳優」と「キャラクター」をつなぐ架け橋になるのである。これが、舞台をパフォーマンスではなく演劇にさせる方法なのである。
ここではもちろん「自己」が交感するわけなのだが、それを「架空の人物」つまり「イメージ」のものと融合させる。 それが架空の物語のミメーシスへとなり、観客は情報の差異から「まるで目の前に、物語の人物が現れた」ような処理を行う。
■「トランス(覚醒)」
それが、別の言葉に換言したところの「覚醒状態」に当てはまる。
しかしこれは、精神錯乱を起こした時のものとは一線を画するもので、あくまで演劇の用語として考えていただきたい(というか、演劇の用語護でトランスは出てくる)。
上に述べた「自己交感」を行う際に、「物語」というクッションをおけば一人の人間で「舞台上の事実」と「架空の物語上の設定」を行きかわせることができるのだ。
このとき「本人としての自己」であるのか「架空の人物」であるのかはもはや関係なく、「情報の差異を生み出す記号」として舞台上に発ち現れることになる。
舞台から、客席にかけて「ある物語」の「情報の差異」を生み出す「トランス」が、僕が言うところの「祈り」である。
これは、上に挙げた動画のうち、一番上のものが条件を満たしていると考える。 二つ目、三つ目は「祈り」までは到達していない。みなさんはどう感じるだろうか。
■情報発信の主体として
演劇において、情報発信の主体は誰か。それは今のところ「俳優」と言って間違いないだろう。 俳優は、舞台上において「主たる記号の発信者」であるのだから、物語においても発信者なのである。
これを脚本家とか演出家とかにするのは、近代以前のものである。
少なくとも、近代以降は演劇における情報の発信者は「俳優」である。 「祈り」という概念も、「情報の発信者を俳優にする」ための一つの装置だ。
祈りは、まぎれもなく神に対して祈るわけだが、(当たり前だが)祈る人は祈っている人であり、祈らない人ではない。
このことは歴史的には重要なことで、教会の権力・宗教の権力はいかにして維持されたのか。それは神の代弁者であるということではなかったか。祈りとはつまり、神に近づくことであり、その行為者は同時に神の代弁者であったのだ。
つまり、祈りとは抽象的な存在を、自己の中に発芽させる行為なのである。この行為は、つまりイメージの内面化であり、他者とコミュニケーションを取る際に優位に立つ方法なのである。
従って、祈りは個人的に行われなければならず、コミュニケーションを取るべき対象と共には行っては意味がない(それでは優位に立てないから)。
だから、個人もしくは集団で特権的に行われるのである。 現代、演劇における「価値」の概念を説明しようとすれば(「なぜ演劇にお金を出すのか」ということ)、「集団で祈っているから」に他ならない。
これが、客席にいる人は到達不可能なことで、「このメンバーで」「この作品だからこそ」可能なものでなければならない。
こうして初めて、俳優の主体性は立ち上がるのであり、演劇が演劇として価値を生み出す瞬間なのだと考える。
これを私たちは「奇跡の飛躍」(これは経済用語)と呼び、その専門化として活動をするのではなかろうか。
さて、みなさんはどう考えるだろうか。僕は、こういう思考回路で「演技」というものを、見てしまうんです。