卒業論文『演劇の記号論~スタニスラフスキーを読む~』③

■「自然主義」の劇世界

 「劇の詩学の課題の一つは、劇的再現の一般的な「世界創造の」原理を解読すること」(ELAM. 1980 訳p113)であるとしたら、「自然主義」は一体どんな方法によって劇世界を立ち上げていたのだろうか。
 観客は、劇世界を与えられた情報からではなく、その情報から「予測」することによって自分の中で世界を創造することができる。ここでは、ゴッフマンの「観客は必要とする情報を内密にあたえられるから、自分の属さない世界に実際に入り込んでいけるという虚構が支えられる」を支持して考察していこう。(Goffman 1974, p. 142)

  「自然主義」は、ドキュメントではない。ドキュメントの手法は、それが現実で起きているからこそ、観客が想像した先に「リアリティ」を発揮することができる。しかし、「自然主義」には、この想像の先の担保は存在しない。想像の向こう側にも常に「虚構」が立ちはだかっている。

 また「自然主義」は「物言い」の章において「リズムとテンポ」に大きく紙面を割いているが、「自然主義」は朗読劇ではない。物語の再現は直接記述(ディエギシス)によってではなく、直接模倣(ミメーシス)によって観客の中で生み出される。演劇における代行=表象はディエギシスのことではない。ミメーシスである。

  「人間が現実に知っているものであるが、舞台では、それは、実際には存在していないけれども、しかし起りうる或るものからできているのである。」(Станиславский. 1936訳p191)

 「自然主義」は「革命闘争」をミメーシスする(Станиславский. 1926訳p. 229)。「自然主義」は神をミメーシスすることはできない。神は現実世界に存在しないと考えられている存在だからである。一方で、京劇や能は神をミメーシスする。劇世界が「起りうる或るものからできている」のであれば、なぜ神をミメーシスすることができるのか。それは、「神」が現実に存在しないことによって成立しているからである。
 つまり、現実に存在しないと想定されている主体が現実に存在しない動作・行動をすることによって神をミメーシスすることが可能になる。

 また、「自然主義」は巨人や妖精、魔女、アウトサイダーなど人間が幻想のうちに作り出したキャラクターを表象することはできない。「自然主義」が表象するのは人間の「感情」であるから、非―人間を演じようと思っても、非-人間の「感情」を模索し続けることになるだろう。そこに、「巨人は幻想だから、感情は不必要だ」と言うことはできない。つまりモニュメントとしてのキャラクターを表象することは不可能である。「感情」はつまり「人間の感情」つまり「近代人の感情」であるから、巨人を演じようと思っても、巨人を近代人のカリカチュアとしてしか表象することはできない。同様にアウトサイダーを上演することは、本来的に不可能である。もちろんこれは、言述(ディスクール)においてもアウトサイダーを表象することが不可能である、という意味においてであるが、「感情」のミメーシスである限り、アウトサイダーもまた「近代人の感情」を持った人間としてしか描かれない。

 これを象徴するのがゴーリキーの『どん底』を上演したときのエッセイである。(Станиславский. 1926b訳p. 268))

「ゴーリキーは時の英雄となった。街々で、劇場で、人々は彼のあとをついて歩いた。ぼんやりと見とれる崇拝者たち、とくに女性の崇拝者たちの群が集まってきた。」

 つまり、近代的自我を信じる人間に対して、アウトサイダーが同様な感情を持っていると、理解させることができるのが「自然主義」だということになる。ここにはアウトサイダーや神、非-人間に対する畏怖心、敬虔さはない。人間はすべて平等である、という価値観が見え隠れする。
 この意味で「自然主義」は人間による、人間のための表現様式ということができる。また「自然主義」は動物を表象することはできない。メーテルリンクの『青い鳥』にしろアンドリュー・ロイド・ウェーバーの『キャッツ』にしろ、俳優が演じる限り、すべての動物は擬人的に扱われる。
 これには「自然主義」の手法が似合うだろう。(ミュージカル『アニー』のウォーバックス家の犬さえも「人間的」に調教される)

 だが『ライオンキング』のような舞台であれば台詞のある主人公たちは別にして、コロスとして登場する動物たちは非-人間的扱い、つまり身振りによって「動物性」が表象される。近代において身振りが人間の分類をする、ということは考えられておらず、人間を分類するのは「出生(種族)」「言語」さらに「思想」である。(筆者はこれについては不勉強であるが)「服装」や「身振り」によって人間をヒエラルキーの中に分類する、というのは近代以前ではなかっただろうか。
 スタニスラフスキーが意図しているかは別にして、どんなキャラクターも「感情」や「思想」によって分類し、「身振り」によっては分類しないことが明らかになる。しかし、歴史的に非-人間を分類するのは「感情」ではなく「身振り」であった。

 そこで、「自然主義」は現実に存在するもの/存在しうるもののミメーシスだということになる。しかし「物言い」の章では「リズムよく」「芸術的な仕方で」台詞を言うことが主張される。これは、現実世界のミメーシスではない。現実世界をミメーシスすると、劇場に声は響かない。

「俳優は、役を内面的に生きて、それから、自分の経験に、外的な具体化を与えるという義務を負わされているのである。」(Станиславский. 1936. 訳p27)

 当時、まだ客席数の少ない小さな劇場向けの演劇理論は完成されていなかった。

 そこでスタニスラフスキーは「演劇で肝心なのは、鉄だろうと、板紙だろうと、それでオセロウの短剣ができている材料ではなく、彼の自殺を正当化することができる俳優の内的感情なのだ」と述べる。(Станиславский. 1936. 訳pp.191-192)

  「内的感情」を「芸術的な物言い」で表現する。これが「自然主義」である。つまり「自然主義」は「内的感情」のミメーシスと言うことができる。そこで俳優は舞台上で感覚することと、役が劇世界で感覚することを一致させなければならないと説く。

「そこで、我々が必要とするのは、劇作家の意図と調和し、同時に、俳優の魂の中に感応を喚び起すような超目標である。すなわち、我々はそれを、単に戯曲の中だけではなく、俳優自身の中にも捜さなければならないのだ。」(Станиславский. 1936. 訳p442)

 これは、ミメーシスによって与えられた情報を観客が想像する先を「内的感情」に設定することである。歴史的事実のミメーシス(ドキュメント)ではない。人間に関する「感情」=「革命闘争」のミメーシスが「自然主義」なのである。

「現代人の精神とその生活を天才的に反映している戯曲があらわれるならば――それが形式的にはどのようなものであっても、印象主義的でも、リアリズム的でも、未来派的でも――俳優、演出家、観客はすべてそれにとびつき、その内的な精神的本質を表現するために、もっとも鮮明な具象化を探求するであろう。現在の人間精神の生活の本質は深刻であり、重要である、なぜならそれは苦悩の上に、闘いの上に、偉功の上に、かつてない苛烈な破局と飢餓を革命闘争のうちに作られたものだからである。」(Станиславский. 1926c. 訳p229)

 しかし演劇では「上演を自然に起きる実生活の活動ととり違えること」はない。(K・イーラム『演劇の記号論』p100)同様に「自然主義」も「自然に起きる」ものとは一線を画する。
 ミメーシスは常に「これは虚構である」という自己再帰的言述によって成立している。しかし宗教をコードとする演劇が上演指し止めを食らう(2004年12月に『恥辱』Bebzti(Disbonour)がバーミンガム・レパートリー・シアターにて上演される予定であった)など、現実の問題になることがある。
 これはミメーシスが「実際には存在していないけれども」という支えを失い「起こっている」という現実世界に捉えられてしまうと劇世界は崩壊してしまう。特に演劇には主体の多重化という現象が起こりやすい(「自然主義の主体」の章で後述する)ので、ミメーシスではなく「発言」「演説」となどと受け取られてしまうと「現実」になってしまう。これは宗教や性だけでなく政治的意図を含んだ演劇(共産党による演劇上演)、政治をミメーシスする演劇(ブレヒト、ハイナーミュラー)によくあることだ。 「自然主義」が想定するのは「内的感情」の劇世界である。