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今、東京のアマチュア演劇は規模縮小の流れにある。このことは現場・業界にいる人であれば実感してもらえることだと思う。それを証明する手立てはないので、ここに記すことはできないがご容赦願いたい。
さて、「演劇」と大雑把に括ったときに、劇団四季や宝塚などを入れないわけにはいかないし、新劇や商業演劇、歌舞伎も当然そこには入ってくる。
しかしアクチュアリティを見ようとすれば演技法や戯曲が固定化された上記のような劇団(もしくは公演)からは、見ることはできない。そこには洗練された技術と、蓄積された歴史を見ることは可能だが、演劇が人間の手によって上演される以上、「洗練される」ことと「過去のものになる」ことは同義にならざるを得ない。
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そこでアクチュアリティを演劇に求めようとするならば、「現代演劇」と言われる範疇の劇団(もしくは公演)を見に行くことになる。しかしこれは「10回に1回当りがあればいいもので…」と言わしめるように「価値基準」の存在しない領域である。しかし「ある傾向」というものは存在していて、演劇が人間を動かす芸術である以上「前提としている信頼」というものが不文律に存在している。
観客は、いわばこの不文律を求めに現代演劇を見に行くのであるが、この不文律は現在のところ「ある修正」がなされてきている。
その修正とは、予算規模の縮小である。
現行の民間小劇場の一日あたりの相場は70,000円前後である。この環境で芝居をやるとなると、最低限70万円程度の予算が求められるが、これはチケット2,000円で割れば350人。キャスト一人当たりのノルマが20人だとしたら、キャスト人数は15~20人の計算となる。
しかしここ数年「小劇場」と呼ばれる現代演劇(もしくはアマチュア演劇)の予算規模・集客力は縮小傾向にあり、予算30万円、観客数200人前後の規模に変わりつつある。
この観客数200人というのは、キャストが無理なく知り合いを呼べる範囲であり、観客層もまた変化している。前者においては業界関係者を含むノルマ20人であるのに対し、後者においては知り合いのみを含めるノルマ10人程度、だと分析できる。
これは「現代演劇」が一層、「知り合いだけ」によって支えられる形式へと移行しているということが言える。
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しかしこれを否定的な捉え方をするわけにはいかないと私は考える。
これは演劇を上演するにあたって一般客が入りづらい状況(=蛸壺化)が起きているからであり、上演側はもはや「観客に対して」よりも「芸術性」を追い求め始めているからである。
そして、「現代演劇」は「業界」という括りから「知り合い」という括りへ移行し、「劇場でなくても完結するネットワーク」の中で上演されることになる。
これは現代演劇において一つの転換点とも呼べることである。つまり、集客は知り合いにおいてのみ充足されるわけだから、機構としての劇場はもはや必要としていない、という事実である。
事実、ギャラリーや路上など演劇専用の施設以外での上演が近年増えている。これは経済的な理由からそうしている場合が多いだろうが、「演劇が身軽になった」と形容できる類のものであると私は考える。
これは築地小劇場における「小劇場運動」と理念を同じくするが、もはや「劇場」さえも必要としない昨今の傾向は「小劇場運動」というよりも「アトリエ公演運動」と呼べるのではないか。
そこにいる観客も知り合いがほとんどであり、内容も実験的である。彼らは芸術性(ひどい場合には自己満足ということもあろう)に奉仕しており、アクチュアリティを引き出すために奮闘しているのである。
それは、現行する「(民間)小劇場」と区別して考えるべきであり、私はこれを「アトリエ演劇」と呼びたい。
依然として、現代演劇は(経済的にも芸術的にも)泥沼の中にあるが、新たなアクチュアリティを発見するのは、現代演劇以外にはありえないのだから、私たちはどうにかして、この現代演劇という運動に言葉を与えてやらなければなるまい。